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系図でみる近現代 第22回
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テレビドラマ相関図


第22回 最近、話題の有栖川宮家とは? 徳川家との“公武合体”、
      そして、後陽成天皇(107代)から現代に至る歴代天皇。(03.11.5記)


最近、ワイドショー及び、世間を賑わせていた事件に「ニセ有栖川宮事件
というのがありました。

「有栖川宮」を名乗る“有栖川宮識仁さとひと)殿下”と、“晴美妃殿下”なる人物が、
今年の4月に「有栖川宮記念奉祝晩餐会」と銘打った結婚披露宴を開き、
祝儀をだまし取っていたというものでした。


当時、私も週刊新潮4/17号に載ったその披露宴の写真と記事を見て、
「何、これ」と、不思議な気持ちになっていました。


“妃殿下”晴美さんが語るには、
「有栖川宮の祭祀は85年に継承しました。
殿下はお母様が有栖川家の外戚で、高松宮のご落胤です。」

と、上品な口調で、淀みなくお答えになっていたと、ありました。


確かに、今回のTV報道により、言葉のはっきりした声のきれいな方で、
なかなかのキャラクターとは思いましたが・・・。

しかし、昭和62年に亡くなられた高松宮宣仁殿下といえば、
兄・昭和天皇をもっと濃くした感じのお顔立ち。
この“識仁殿下”とは、似ても似つかん・・・。


立て板に水のごとく話す晴美さんの傍らで、その時、発した唯一の“お言葉”が、

「ご落胤は、ちょっと・・・・・・」



・・・怪しすぎる






有栖川宮、いかにも上品で高貴な感じの雰囲気を漂わすお名前。

ちなみに、推理小説作家に、有栖川有栖(男性)という方がいますが、
「なんと、たいそうな名前を!」と思っていましたが、本名は、「上原」との事。

有栖川宮といえば、一般的に思い出される有名な話は、9代・熾仁(たるひと)親王
公武合体で14代将軍家茂に降嫁した皇女和宮の許婚者(いいなずけ)であったという事。
そして、その後、慶喜が江戸城を明け渡す前、東征大総督として、
慶喜追討のために江戸に進軍した親王という事でしょうか。

有栖川宮家の歴代の人物を系図に著すとこうなります。 (※関連:第18回系図1
[系図1]

後陽成天皇は、徳川家康・秀忠に征夷大将軍を宣下した天皇。
その第7皇子好仁親王が有栖川宮家の始祖であり、当初、高松宮と称した。

第2代は後水尾天皇の第8皇子良仁親王花町宮と称したが、
皇統を継いで後西天皇となったため中絶。


のち後西天皇の第2皇子幸仁親王が3代を継承して、1672年有栖川宮と改称した。
4代正仁親王には、後嗣がなく、霊元天皇の皇子職仁親王が相続した。


有栖川宮家は歌道・書道を家学とし、8代幟仁親王の代になって有栖川御流(ごりゅう)を確立、
幟仁親王は明治天皇の書道・歌道の師範を勤めた。

そして、10代威仁親王(9代熾仁親王の弟)の時、王子栽仁王が夭逝したため、断絶。

ただし、大正天皇は威仁親王(1862〜1913)の死去に先立ち、大正2年、特旨をもって
大正天皇第三皇子宣仁親王高松宮を与え、有栖川宮家の祭祀を受け継がせた。

この時より、母方有栖川宮家の血を引き、徳川慶喜の孫でもある喜久子妃(1911〜2004)が
将来、高松宮妃になる事は、決定していたという。


有栖川宮家は、大正12年威仁親王慰子妃の薨去で事実上、絶えた。



また、有栖川宮家は、伏見宮家桂宮家とともに、世襲宮家として、三親王家を形成し、
天皇家の血統の予備軍としての役割を果たした。

この三親王家を見習って徳川家康が、世継ぎの備えに創設したのが徳川御三家


その後、6代将軍家宣の時、新井白石の「幕府の繁栄をはかるには、皇室の繁栄をはかるべし」
との建言により、閑院宮家が創設されて、四親王家になった。



明治に入ると王政復古により皇室の権威の高まりと経済力に裏打ちされ、続々と宮家が新設された。
しかし、明治14年に桂宮家が、続いて大正2年に有栖川宮家が継嗣がなく、それぞれ廃絶となった。


残った伏見宮閑院宮及び伏見宮家から分かれた東伏見宮山階(やましな)宮賀陽(かや)宮
久邇(くに)宮朝香宮梨本宮東久邇宮北白川宮竹田宮の11宮家が、
昭和22年の皇籍離脱まで続いた。


この機会に同時代の歴代天皇の系図も描いておきます。
[系図2]




そして、有栖川宮家と徳川家との関係は。

15代将軍徳川慶喜は既に、“公武合体”の所産であった!


[系図3]


(※関連:第8回第14回第18回



有栖川宮家歴代のお名前を見ていると、ある事に気づきます。


それは、職仁織仁幟仁熾仁、と
最初の漢字の右のつくりの部分がみな同じだと、いうことです。


この事に関して、高松宮喜久子妃は、自身の著書「菊と葵のものがたり」の中で
こう語っています。

「似たような字で、ややこしくて、むずかしいから、私たち、代々のご先祖さまを
ハバヘンだの、ミミヘンだのと言ってたの(笑)」

すなわち、5代ミミヘン、6代イトヘン、8代ハバヘン、9代ヒヘン、ということになりますか。




なるほど!!
ということは、今回話題になったあの識仁殿下は、


ゴンベンの人」と言われるべきお方だったんですね!?




(ちなみに、警察の隠語で“ゴンベン”と言えば、「詐欺」の事を言うそうです。)





[※112代霊元天皇は、識仁(さとひと)親王と称していました。]






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●参考文献
「徳川慶喜とそれからの一族―徳川一族の明治・大正・昭和史」佐藤朝泰
「菊と葵のものがたり」高松宮妃喜久子
「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子
「歴代天皇総覧」歴史と旅
「天皇家の人々―皇室のすべてがわかる本」神一行
「日本史人物辞典」
「平成新修旧華族家系大成」霞会館
 
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