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系図でみる近現代 第23回

近現代人物のエピソード、系譜・閨閥など、系図を交えて紹介。

愛新覚羅浩 家系図 (※転載禁止)

第23回 TVドラマ「流転の王妃・最後の皇弟」、愛新覚羅浩。父方嵯峨侯爵家、母方「ヒゲタ」濱口家そして、明治・大正・昭和天皇生母家、中山・柳原・九條家。(04.2.8記)

昨年(2003年)、11月29・30日とTVドラマ「流転の王妃・最後の皇弟」が、
二夜に渡って放送され、日本全国に感動の嵐を呼び起こしました。

昭和12年、満州国皇帝“ラストエンペラー”溥儀の弟・愛新覚羅溥傑
日満親善の美名のもと、、軍部の仕組んだ政略結婚により、
嫁いだ嵯峨侯爵家の長女・嵯峨浩

自身が書いた原作本である流転の王妃の昭和史(愛新覚羅浩/著)や
関連本である愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人(渡辺みどり/著)などから、話を要約すると、

“二人は政略結婚ではあったが愛を育む仲睦まじい夫婦であり、
日中の架け橋として健気にその務めを果たしていた。

しかし、敗戦、満州国滅亡。夫はソ連に抑留、夫人は動乱の満州を次女の手を引き、流転。
銃火に命をさらし、飢えと寒さに苦しみ、冷たい監獄の中で絶望に打ちひしがれる日々。

そして、1年4ヶ月後、やっとの思いで帰国。
しかし、長女・慧生の天城山心中など、苛烈な運命を生き抜き16年ぶりに夫と再会。
国際結婚による民族風習の違い、その後の激動する境遇の障害を乗り越えて貫いた夫婦愛”



今も、溥傑を演じた竹野内豊の「ヒロさ~ん、ヒロさ~ん」という
やさしい呼び声が耳に聞こえてくるようですが、

(もっとも、同時期に、高校教師を演じたドラマでは、「てめぇら~」と威勢がよかったですが)

実際、溥傑はそう呼んでいて、浩が1987年に北京で73歳で亡くなった時は、
「浩さん、浩さん」と遺体にすがって、嘆き悲しむので、遺族が到着した時も
彼は、対面を止められたといいます。
本当に、誠実で、やさしく、しかも芯の強い方だったようです。

一方、浩を演じた常盤貴子は、学生時代の同級生に夫妻の孫がいたという事ですが、
浩の次女・こせいは、浩の妹で、香淳皇后に仕えた福永泰子女官の義理の甥・
幼馴染でもある福永健治(のち老人ホーム経営)と結婚、5人の子宝に恵まれ、兵庫県在住。
庭には、母上が満州に嫁ぐ時、皇太后(大正天皇妃)より種を下賜された
白雲木が植えられているといいます。

そういえば、常盤貴子は、兵庫県西宮市出身でした。
初主演映画「赤い月」(原作・なかにし礼)といい、彼女、最近、満州づいて?いますね。

ちなみに、浩の3人の妹のうち、ドラマで唯一登場していた末妹・幹子(ことこ)は、
父・実勝(さねとう)の妹・幾久子が嫁いだ町田学園創始者・町田徳之助の次男と結婚。
浩の弟・嵯峨公元(きんもと)は冷凍船会社を経営し、町田学園第4代理事長を務めた。
現在は、その息子・嵯峨実允(さねのぶ)が嵯峨家当主をつとめています。


嵯峨家は、明治以前は、正親町三條(おおぎまちさんじょう)と名乗り、公卿の中では、
五摂家、九清華家に次ぐ大臣家という名門。

浩の父方祖母・南加明治天皇のご生母である中山慶子一位局の姪(明治天皇といとこ)、
という皇室に近い家柄であった。 

そして、浩の見合いを仲介したのは、
中山輔親(すけちか)侯の母堂・三千代刀自(とじ/刀自は中年以上の婦人を尊敬して呼ぶ語)。

満州に嫁ぐ時、皇太后(貞明皇后)にお別れの挨拶に参内する時、同行したのが、
中山侯の豊子夫人。彼女は九條家の出身で、皇太后の姪でもあった。


これらを含めた系図は下記。




そらのる

●中山家(藤原北家・花山院家庶流・羽林家/忠能に侯爵)
中山忠能(ただやす)
中山忠能
幕末・維新期の公家/娘・慶子が明治天皇生母/侯爵
1861年、和宮降嫁の際、御用掛として江戸に赴く。幕末国事に尽くし、薩長両藩に倒幕の密勅を下す。
王政復古後、議定となり明治元年、輔弼、従一位・准大臣。翌2年神祇伯。
関連本
中山忠光
中山忠光
忠能七男/同母姉が中山慶子
国事を憂い、尊王倒幕に燃え、1864年、大和行幸を企図。天誅組首領として、
大和国五条代官所を襲撃したが、幕府軍に敗れ、落ち延び先の長州で、藩内佐幕派に暗殺される。
●柳原家(藤原北家・日野家庶流・名家/前光に伯爵)
柳原前光(さきみつ)
柳原前光
明治期の官僚・政治家/父は公卿・柳原光愛(みつなる)、妹・愛子が大正天皇生母/伯爵
外務省に入り、日清修好条規の締結、台湾出兵後の日清交渉にあたる。
元老院議官となり刑法・治罪法審議に従事。のち、駐露公使・賞勲局総裁・元老院議長・
枢密顧問官などを歴任。その間皇室典範制定に参画した。
柳原白蓮(びゃくれん)
柳原白蓮
明治~昭和期の歌人/前光の次女/本名・燁子(あきこ)/
「恋の華・白蓮事件」(永畑道子/著)
「白蓮れんれん」(林真理子/著)
「恋ひ歌―宮崎龍介と柳原白蓮」(斎藤憐/著)
九條家(藤原北家・嫡流のわかれ・摂家/道孝に公爵)
九條道孝
九條道孝
幕末期の公武合体派公卿/四女・節子(さだこ)は大正天皇妃(貞明皇后)・昭和天皇生母/公爵
1867年左大臣となるが、王政復古に際し、公武合体派として、一時参朝を止められた。
維新後、奥羽鎮撫総督・弾正尹・掌典長を務める。興福寺の再興や「孝明天皇紀」の編纂にも携わった。
●愛新覚羅家(清朝皇帝の姓。“愛新“は満州語で「金」を“覚羅”は由緒ある家柄の姓を意味する。)
愛新覚羅溥儀
愛新覚羅溥儀
1906~67/清朝“ラストエンペラー”(12代・宣統帝・’08~12)、満州国皇帝(康徳帝・’34~45)/
3歳で即位、11年辛亥革命がおき翌年退位。以来、袁世凱の画策により皇帝を称し紫禁城内に住む。
’24年馮玉祥(ふうぎょくしょう)の北京占領により一切の特権を奪われ、日本公使館へ逃げ込み、
日本の庇護のもと天津日本租界を転々とする。’31年満州事変以後、日本軍により長春に移され
’32年満州国国家元首(執政)、’34年皇帝。日本降伏の直後、臨江県で満州国解体と退位を宣言。
日本へ亡命しようとしたが、’45年8/19瀋陽でソ連軍により、逮捕、チタ、ハバロフスクに抑留される。
’46年東京裁判に証人として出廷。’50年身柄は中国に引き渡され、’59年の特赦まで戦犯収容所。
出所後、北京に住み、人民政協会議の文史資料研究工作等に従事した。’67年北京で死去。
著書・関連本
「わが半生―「満州国」皇帝の自伝」
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])


愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人 (文春文庫)


昭和12年(1937)4月3日に、浩・溥傑の結婚式が行われました。
披露宴には、この結婚の仕掛け人・元関東軍司令官で侍従武官の本庄繁陸軍大将、
時の首相・林銑十郎、他内閣の大臣お歴々が夫妻で、そして、政府・軍・満州関係者、
公卿華族からは、三條公輝公爵姉小路伯爵
宮家からは、竹田宮夫妻(妃が三條公輝娘)が出席。

三條・嵯峨・姉小路は祖を同じくする同族。




(※関連:第10回

●藤原北家・閑院家
嵯峨家
[正親町三條]
(おおぎまちさんじょう)
三條家庶流・大臣家
三條実房の三男・公氏(きんうじ)を祖とし、鎌倉時代初期に創立。
正親町三條実愛(さねなる)は倒幕派の公家として活躍し、1867年、
薩長両藩へ倒幕の密勅を伝達した。同年王政復古により新政府の議定となり、
内国事務総督・刑部卿・教部卿などを歴任した。
この間、明治3年に家名を正親町三條から菩提寺・二尊院のある京都・嵯峨野にちなんで、
嵯峨に改名。 改名の理由は長いから。
14年に嫡男・公勝(きんとう・浩の祖父/1863~1941)に、家督を譲る。
明治17年、公勝に伯爵。しかし、実愛は三條実美に「当家伯爵不満」、
のち実愛の維新の勲功により侯爵に(明治21年)。
三條家 三條家嫡流・清華家
閑院の嫡流で、実行(さねゆき)が祖。
閑院流は、白河・鳥羽院政期の上皇・天皇の外戚の地位をほとんど独占し、
院近臣として権勢をふるった。
鳥羽上皇の重臣藤原実行は、八條とも三條とも号したが、
その子公教、孫実房と嫡流が三條高倉邸にちなんで三條と号し家名が定まった。
実房のあと嫡流は長男公房が継ぎ、三條と号したが、三男公氏も三條と称したので、
嫡流を転法輪(てんぽうりん)三條、公氏流を正親町三條とよんで区別した。
幕末・維新期、三條実万(さねつむ)・実美父子が尊攘派公家として有名だが、
実万は安政の大獄に連座。実美も七卿落ちの憂き目にあいながらも、
王政復古に尽力した筋金入りの勤王家。実美に公爵。
三條実輝(実美三男)は掌典長・御歌所長を務めた。
姉小路家
(あねがこうじ)
三條家庶流・羽林家
三條実房の二男・公宣(きんよし)が祖。
姉小路公知(きんさと)は幕末期、尊攘派の中心として活躍。
国事御用掛、国事参政をつとめたが、文久3年、宮中より退出の途中、
朔平門外で暗殺された。その子公義(きんとも)に伯爵。


明治9年、全華族の団結と融和を目的として、宗族制度というのが作られ、
先祖を同じくする華族は旧公卿、大名を問わず同じ「類」にまとめられる事になった。類は全部で76。
三條・嵯峨・姉小路などは、太政大臣・藤原実行を祖とする第53類に属していた。

嵯峨(正親町三條)家は、大名家ともゆかりが深く、浅井長政の浅井家や、
信濃松本、美濃大垣などの戸田家は、いづれも始祖が、正親町三條家から出ている。

すなわち、浅井長政とお市の方の長女・淀殿や、
三女・お江与の方(二代将軍徳川秀忠夫人)は、その流れをひいている。
また、徳川三代将軍家光の乳母として、権勢を振るった春日局は、
いったん当家の養女となってハクをつけ、大奥入りした。


日本が中国東北部に満州国という「五族協和」「王道楽土」の建設を真に夢見たのか、
それとも、単なる植民地政策の傀儡とするつもりだったのかは、
長春(新京)の巨大な関東軍司令部の建物と、その近くにこぢんまりと建っている帝宮の建物とを
比較して見れば、無言のうちに当時の事実関係は見えてくるという。


当初、満州国皇弟妃は、皇族の中から選ばれるはずだった。
仕掛け人はもちろん関東軍。

はぼ北白川宮の皇女に決定していたが、土壇場になって
日本の皇室典範上、不可能である事がわかったという。

また、関東軍内部では、お妃候補をめぐって対立があり、
それは、未来の満州国の主導権争いにつながっていた。

満州に嫁いだ浩にとって、関東軍の待遇のひどさには、何度も泣かされ、
その頃、口うるさい人々はやっかみもあってか、「五十万円で満州に買われてきた」とか、
「醤油屋の娘」など、さまざまの悪口を言い立てる人がいた。



「醤油屋の娘」・・・、そう、浩の母方は、上記原作本などからの説明を抜粋すると、

“紀州の古い家柄で、祖父の濱口容所(ようしょ)は、貴族院や衆議員に何回か当選し、
九州電力社長や豊国銀行頭取などを歴任し、ヒゲタ醤油を再興させた大実業家で、
また詩人墨客、絵画の収集家としても知られた人。”



しかし、“ヒゲタ醤油を再興させた”という部分は、少々、誤りではないかと、思われます。
実際、政財界、特に実業界の大物で貴族院議員になる程に、相当の財を成した方ですが、
容所(吉右衛門)は大正2年に51歳で亡くなっており、下記にも説明を書いていますが、
再興させたのは、弟の濱口吉兵衛が、正解だと思われます。

ところで、濱口家は、とにかく同じ名前を代々襲名して、
吉右衛門やら、吉兵衛が続くので、非常にまぎらわしくて、ややこしい!!


醤油の代表的生産地、千葉県には野田を根城とするキッコーマンと、
NHK朝の連続TV小説「澪つくし」の舞台にもなった銚子を根城とする
ヤマサ醤油ヒゲタ醤油とがあるが、ヤマサもヒゲタも経営者は濱口一族であり、
ヤマサの当主は代々「儀兵衛」を、ヒゲタは「吉右衛門」を名乗ってきた。

実は、この両濱口家は元々同族で、初代吉右衛門は、ヤマサ醤油の初代儀兵衛の兄で、
弟が造る醤油や海産物を販売し、兄弟コンビで江戸で商売を始めていた。

この両家の関係は、ヤマサ醤油が創業以来、明治末頃まで続き
儀兵衛家が製造、吉右衛門家が販売を担当するという分業体制を維持してきた。

それに、ピリオドが打たれたのは、ヤマサが、明治42年の出火により、
すべてが灰燼に帰したことによる。
生産が止まったために販売部門は独立せざるを得なかった。


9代浜口吉右衛門(容所・浩の祖父)の弟・浜口吉兵衛は本家吉右衛門家から分家して、
明治38年千葉県銚子町に工場を建設し、醤油製造を始めていたが、
大正3年9月、銚子の他の醤油醸造業者二家(田中玄蕃深井吉兵衛)と
合体して、「銚子醤油」を設立し、工場や製法も近代化し、商標を“ヒゲタ”
統一して、初代社長には、浜口吉兵衛が就任した。

そして、先発大メーカーの“ヤマサ”の追撃を開始した。
(“ヒゲタ”は、田中玄番が銚子の地に1616年(元和2年)創業)

そして、吉右衛門家は、その“ヒゲタ”の販売部門に参入した。


新興“ヒゲタ”は順調に成長し、分家の吉兵衛が興したものだったが、
次第に本家吉右衛門家の家業の中心に育っていく。


戦後、昭和21年には、10代吉右衛門(乾太郎・浩の伯父)が亡くなり、
昭和26年に、11代濱口吉右衛門(久常)が社長に就任、
その後、昭和49年には、野田のキッコーマンの一族であり、吉兵衛(麟蔵)の娘婿でもある
茂木新七が社長に就任、社名を銚子醤油からをヒゲタ醤油に改称した。

そして、昭和62年には、12代吉右衛門(勝久)に社長の椅子をバトンタッチした。
現在は、その弟・濱口敏行が平成14年より社長を務める。




●濱口・茂木・鈴木家
濱口吉右衛門(9代)
   (容所)
濱口吉右衛門(9代)
1862~1913(大正2年)/衆議院議員3期(1896~1902)・進歩党・憲政本党、
貴族院議員(1907~13/多額納税者)/浩の母方祖父/
濱口家は紀州の有力家であり、代々、日本橋に老舗の醤油・塩・紀州物産の問屋を構えていた。
9代吉右衛門は慶応義塾を出て、醤油醸造販売業、植林事業を営む。
のち、衆議員議員となり財政整理国本培養論を建策して重視される。/
鐘淵紡績重役、富士瓦斯紡績・九州水力電気・高砂製糖社長、豊国銀行頭取、
朝鮮銀行幹事、濱口代表社員、猪苗代水力電気取締役等を歴任。
濱口吉兵衛 1868~1940/衆議院議員2期(1920~28)・立憲政友会/8代吉右衛門の三男・9代の弟/
東京帝国大学法科大学に学び中途退学して欧米視察。日露戦争に出征、殊勲を立て陸軍歩兵中尉。
実業界に転じ、名声衰えたるヒゲタ醤油を再興、品質の吟味醸造方法の改良につとめて
“ヒゲタ”をヤマサ印、亀甲萬印と共に醤油界におけるブランドとしての地位を確立させる。
明治後期、中央財界で活躍し、矢野恒太とともに第一生命を興した人物としても知られる。
大正9年より、衆議院議員をつとめ、銚子港整備大事業に取り組んだ。/
銚子醤油・千葉県水産社長、濱口理事、武総銀行取締役、
第一相互貯蓄銀行・東京護謨工業・第一生命・豊国銀行・利根織物監査役等歴任。
濱口吉右衛門(10代)
   (乾太郎)(無悶)?
1883~1946/銚子醤油・東濱植林社長/9代の長男、浩の伯父/
米国エール大学に留学、帰国後、濱口合名会社員、先代没後、代表社員を経て、濱口商事社長。
浩が生まれた時、母・尚子(ひさこ・1896生)は18歳の若さであり、続いて妹達が生まれたため
小学校入学前から上大崎の濱口邸に引き取られ、祖母・糸子や伯父夫妻と暮らしていた。
溥傑との見合いはその「ルイの間」で行われた。
※当時の浩の結婚を伝える新聞記事では、「吉左衛門」と書かれており、間違っているようです。
濱口吉兵衛
   (麒蔵)
1892生/銚子醤油会長、第一生命社長/
10代吉右衛門の弟、濱口吉兵衛(叔父)家に養子入り・妻はその娘/浩の伯父
濱口吉右衛門(11代)
   (久常)
1907生/S26年より銚子醤油社長/10代の長男、妻は野津侯爵家の長女
茂木新七 1914生/S49年より銚子醤油社長。社名をヒゲタ醤油に変更。/妻は濱口吉兵衛(麟蔵)の娘/
茂木家はキッコーマン一族。
濱口吉右衛門(12代)
   (勝久)
1936生/S62年よりヒゲタ醤油社長・現会長/11代の長男、妻は鈴木恭二の娘
鈴木恭二 元味の素会長・社長/鈴木家は味の素一族
濱口敏行 ヒゲタ醤油社長/11代の次男
●野津・大原・正田家/ 関連:第11回第12回
※正田家は元々、群馬・館林で米穀問屋を営んでいたが、美智子皇后の4代前に、醤油醸造業に参入した。
野田や銚子より遅い創業だが、「亀甲正」の商標で大いに隆盛をみた。(醸造法は茂木家から教わったという)
この時の当主の次男が分家して始めた製粉業が日清製粉に発展、「製粉王」と呼ばれるまでになった。
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])


濱口家嵯峨家との縁組は、まさに、お互いがお互いを必要とした結びつきだったように思われます。
一方は、政財界に顔のきいた大物で財力に冨む実力者家系、
他方は、昔からの名門家系ではあるものの、“貧乏公家”という言葉があるように、
名誉はあっても、大名華族ほど、資産は持たない公卿華族の侯爵家。

結婚式当日、浩は、ずっと、娘時代を暮らしてきた濱口邸からではなく、
祖父・嵯峨公勝侯爵のたっての要望で、祖父の嵯峨邸から、結婚式へと出発した。

祖父・公勝が、そういったプライドを示したのは、まさに「嵯峨」という名前のサガ!?


激動の昭和史を生きた溥傑は、晩年、中国で、
全国人民代表大会常務委員会委員や、全国民族委員会副主任などをつとめた。
また、芸術家として、書道や詩、絵画など幅広い分野で活躍した文化人であった。
余生を日中友好に尽くし、天皇・皇后両陛下の訪中(平成4年)では、
影の実力者だったと伝えられる。

映画「ラストエンペラー」を見た溥傑は
「映画だから、面白くつくっているね。事実と違うところもありますが、面白すぎました。」
と笑っていたとの事。

溥傑は、浩が亡くなってから、7年後の平成6年(1994)、北京で亡くなった。享年86歳。
遺骨の半分は浩・慧生母子の遺骨とともに、父・醇親王の墓地がある妙峰山の上空から散骨され、
半分は、山口県下関市にある中山神社の愛新覚羅社に親子三人一緒に祀られている。



今回、自身の興味・研究から、まとめておきたくて、書いてみました。

「流転の王妃の昭和史」や関連本などを読まれたり、
流転の王妃 最後の皇弟」を見られたりする時の一助になればと思います。

しかし、これぐらい書いておけば、溥傑・浩夫妻もさぞかし、あんしんかしら





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●参考文献
「流転の王妃の昭和史」愛新覚羅浩
「溥傑自伝」愛新覚羅溥傑
「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり
「皇弟溥傑の昭和史」舩木繁
「門閥」佐藤朝泰
「豪閥」佐藤朝泰
「華族誕生」浅見雅男
「時代に挑戦した女たち」上坂冬子
「日本の名家」週刊読売編集部編
他、各種人名辞典・人名録・系図集