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テレビドラマ相関図 |
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第24回 皇室血統予備軍、四親王家。そして、戦後(昭和22年)、皇籍離脱した十一宮家とは?
(04.3.6記)
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前回・第23回は、満州に嫁いだ嵯峨侯爵家出身の愛新覚羅浩を描きました。
今回は、一気にその流れで、“もう一人の流転の王妃”、すなわち、
“朝鮮王朝最後の皇太子妃”、李方子(まさこ)をまとめたく思いました。
梨本宮家出身の李方子妃(家系図)。
しかし、その前に、梨本宮家・・・、と言われても、
大方の現代人が、ナシモトと聞いて、思い浮かべるのは、
時たま、TV等で見かけるあの方・・・(漢字は梨元)。
また他にも、昭和天皇皇后・香淳皇后の実家といえば、久邇宮家であり、
戦後、最初の首相は「宮様総理」東久邇宮稔彦(なるひこ)王、
TVドラマ「流転の王妃・最後の皇弟」で登場したのは、竹田宮家などなど。
それら宮家の名前を聞いても、現代では、なかなかピンとこないのが、実情かもしれません。
一度、簡単に、昭和22年まで存在した宮家、及びその系譜をまとめておこうと思います。
終戦当時、「万世一系」天皇家の血脈リレー予備軍としての宮家は、十四宮家が存在した。
そのうち、昭和天皇の弟宮である秩父・高松・三笠の三直宮(じきみや)家を除いた
十一宮家が昭和22年10月、臣籍降下(皇籍離脱)した。すなわち、“平民”になった。
その十一宮家とは、伏見宮・梨本宮・山階宮・久邇宮・北白川宮・閑院宮・
東伏見宮・賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮家。
そして、これら宮家、すべての元になっているのが、
四親王家の中で、一番歴史のある伏見宮家。
その系譜は、南北朝時代まで遡る。
伏見宮家は、北朝3代・崇光(すこう)天皇の第1皇子・栄仁(よしひと)親王を祖とする宮家。
(創立室町時代)
天皇家の血統リレーの予備軍として創立され、以後、代々の当主が、
天皇の養子か猶子つまり名義上の子として、親王宣下を受けてきた世襲親王家。 |

その後、桂宮家(桃山時代)、有栖川宮家(江戸時代初期)、閑院宮家(江戸時代中期)が
創立され、伏見宮家と合わせて四親王家と呼ばれた。
実際、これら親王家の中から、皇位を継承した例としては、
伏見宮家第3代貞成(さだふさ)親王の王子・彦仁(ひこひと)王が後花園天皇(102代)となり、
有栖川宮家第2代良仁(ながひと)親王自身が、後西天皇(111代)に、
閑院宮家第2代典仁(すけひと)親王の王子・兼仁(ともひと)王が光格天皇(119代)になった例がある。
以下は、歴代天皇と四親王家の関連系図です。
伏見宮家は第4代貞常親王の流れほぼそのままで、明治を迎えた。 |

(※関連:第22回)

明治維新までは、この四親王家だけが、血統予備軍を担い、
天皇家に親王が何人生まれても、宮家は新設されなかった。
天皇の子でも皇位継承者以外は出家し、仁和寺、輪王寺、智恩院など、
門跡(もんぜき)寺院の僧侶になった。
四親王家や五摂家などの公家も同じで、継嗣以外は出家した。
女子は、門跡尼寺に入る以外に、嫁に行く道があった。
親王家や五摂家などの娘は、閨閥の連鎖・円環の中だけでなく、
外の徳川将軍家や有力大名に入輿する事が多かった。
公家側は経済的な支援を期待し、武家側は京の雅さ(文化)や位階を求めて引き合った。
特に徳川将軍家は正室は京から迎えることを原則としていた。
そして、維新により、この門跡制度は廃止されるに至り、
既に僧籍に入っていた者が、続々と還俗して宮家が新設された。
もし、維新がなければ、これらの親王たちは、そのまま門跡寺の僧侶として、
一生を終えていたはずであったが、徳川幕府が倒れ王政復古とともに、運命は大きく変化した。 |

閑院宮家第6代を継いだのは、伏見宮邦家親王の第16男子・載仁(ことひと)親王であり、
四親王家のうち、桂宮家、有栖川宮家は継嗣がなく、断絶した。
また、伏見宮家から独立して、明治以降、新設された宮家のうち、
小松宮家、華頂宮家は、同様に断絶した。
戦後、皇籍離脱した十一宮家とは、
四親王家から、伏見宮家、閑院宮家、
伏見宮家から派生した、梨本宮家、山階宮家、久邇宮家、北白川宮家、
東伏見宮家、賀陽宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家。
すべては、伏見宮家の流れであった。
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●参考文献
「門閥」 佐藤朝泰
「天皇家と日本の名族」別冊歴史読本
「明治・大正・昭和 天皇紀」歴史読本
「天皇家の人々」 神一行
他、各種人名辞典・系図集
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