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第29回 祝・ご婚約 清子内親王殿下(紀宮)、黒田慶樹都庁職員
そして、黒田家の歴史と謎 (04.12.17記) |
天皇家の三人目のご子息・長女であるサーヤこと紀宮清子(のりのみやさやこ)さま(35歳)の
婚約内定発表が12月18日、正式に行われます。
[※高松宮妃喜久子さま(第18回・第22回参照)18日未明ご逝去により延期/12月30日正式発表]
お相手は次兄・秋篠宮殿下の学習院初等科時代からのご学友、黒田慶樹さん。
三井銀行(現・三井住友銀行)を経て1997年4月より東京都庁勤務の39歳。
クルマ好きで愛車はロータス、年代もののカメラを趣味とされている方。
ところで、黒田家と聞くと、どうしても筑前福岡の大名家、黒田侯爵家の流れかと、
まずは思ってしまうのですが、そうではないようで、
また、第2代総理・黒田清隆の伯爵家でもなく、
全部で8家ある旧華族の黒田家とは、どうも関係がない模様・・・。
しかし、旧華族とのつながりがあり、父方の伯母が税所(さいしょ)子爵家に嫁ぎ、
父方の伯父の妻が秋月子爵家の出身といいます。
(福岡分家の筑前秋月・黒田子爵家は秋月家と、つながりがあるのですが・・)
そして、その伯父に関して、
日本経団連会長の奥田碩トヨタ自動車会長が、
「トヨタ自販の常務だったので、よく知っている。」とのコメント。
一体、黒田家とは?
そして、黒田さんとは何者なのか?
簡単な横のつながりの系図を描いておきます。
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“祖父が上海の「棉花紳士」だった「黒田家の家柄」”
と載った週刊新潮11月25日号、
最近出た文藝春秋2005年1月号、そして、満州人名辞典から
黒田家の歴史をまとめてみると、
祖父・黒田慶太郎氏(明治15年生)は戦前の上海の巨大紡績会社上海紡織の会長を務めた人物。
そのまた父(黒田さんの曽祖父)の名は吉三郎と言い、大阪府堺市出身!
慶太郎氏は一橋大学の前身である東京高商を明治37年(1904年)に卒業後、
三井物産に入社、三井財閥家の人間とともに渡英しロンドン支店勤務となり、イギリスに約9年滞在。
そして帰国後、三井物産が明治時代に買収し、中国で最も古い日系の同社に入り、
支配人取締役代表を経て会長に就任、長く最高幹部を務めた。
当時、紡績業は日本を代表する産業で、上海紡織はシャンボウと呼ばれ、
紡績会社として上海で1、2を争う大企業。
慶太郎氏は代表取締役会長の他、上海商工会議所議員を務め、
戦前の上海に暮らす日本人社会の有力者の一人だった。
やせ型のおしゃれでダンディ、アメリカ式ではなく、
イギリス式のスーツを着こなすジェントルマンであったといいます。
また、奥様(チカ子・明治28年生・柳河高女卒)も品の良い方であり、その父の名は、多賀武次郎。
多分、小樽商業会議所(現・小樽商工会議所)の書記長を務めた人物。
現在で言えば事務局長に近い立場で、当時「小樽港修築意見書」を著した方ではないでしょうか。
黒田慶太郎夫妻には二男四女(満州人名辞典による/文藝春秋では二男六女)があり、
長女は税所家に嫁ぎ、
長男・黒田慶一郎氏は、昭和18年立教大学経済学部を卒業、
トヨタ自動車工業勤務を経て昭和25年トヨタ自動車販売に転じ、
昭和44年取締役、50年常務、そして、日本ケミカル工業会長となった。
次男・黒田慶次郎氏が慶樹さんの父親にあたり、
初等科から学習院に学び政経学部を卒業後、トヨタ自動車勤務。
東京・神田の呉服問屋の一人娘・壽美子さんとの間に二児をもうけるが
1986年、長男・慶樹さんが大学三年の時、56歳で亡くなった。
温厚で柔和な紳士だったといいます。
こう見てくると、黒田慶樹さん自身の流れの中には、旧華族関係者はやはり、いないのか・・。
しかし、親戚筋には旧華族・皇族につながる人がいて、まさに準華族とも呼べる存在。
また、学習院で共に学んだ秋篠宮さまと、非常に親しい関係で、
この事が、今回のご婚約の決め手になったとも、言われています。
つまり、旧華族とは関係はないが、
黒田慶樹さんに関して、確実に言える事は
“独身貴族”であった、という事ではないでしょうか。
間違いない!!
■三井物産、東洋棉花(現・トーメン)
三井物産の発展史は、明治時代における外国貿易の発展と表裏一体の関係にあった。
中国との綿花取引の歴史は古く、三井物産が明治10年(1877年)、
最初の海外支店として設置した上海支店以来であった。
紡績業の発展に伴い、綿花の輸入は増加の一途をたどり、
綿花は三井物産の取り扱い商品中で最も重要な商品となった。
そこで、明治27年(1894年)「三井物産棉花部」を発足させた。
これが、大正9年(1920年)4月、分離・独立し東洋棉花株式会社が創立されるに至った。
■上海紡織
前身は、三井物産が明治35年(1902年)、中国人経営の興泰紗廠を買収して、
上海紡績有限公司の名で香港政庁に登録したものであったが、
三井家が半数の株式を所有し、三井物産上海支店が総代理店となり、一切を管理していた。
1916年、イギリス法の改正により英法人の会社に改組され、さらに1919年、
社長及び総代理人ともに英人である事が必要となったため、
1920年7月、イギリス法人を解消し、その債権債務を継承した上で、
日本の法律による「上海紡織株式会社」として、改めて設立登記した。
東洋棉花創立時の三井本社との約束により、1922年4月上海紡織は東洋棉花の傘下に入った。
この時点では、必ずしも順調な業績ではなかった。
しかし、大正13年(1924年)、權野健三が会長に就任し、技術者の増強とともに、原料綿花の厳選や、
製品販売を中国全土に拡大するなど独自の営業努力により、次第に業績を伸ばしていった。
その後、戸川濱男会長が昭和8年(1933年)に就任し、上海羊毛工場、青島工場などを新設、
終戦時まで順調に発展、中国紡績業の向上と隆盛に貢献した。
(以上、「翔け世界に トーメン70年のあゆみ」より参照・抜粋/
黒田慶太郎氏の名前はここには、登場しませんが、会長就任は、戸川会長のあとなのでしょうか?) |
上海紡織は莫大な資産と設備を持ち、在華日本人紡績の有力企業であり、
東洋棉花にとっても最大の在外資産であったが、
太平洋戦争終結とともにすべて接収された。
黒田一家も日本へ引き揚げ、
慶太郎氏は知人に
「上海では、何十足も靴があったのに、今はこれだけだよ」と
古びた靴を見せながら、語ったこともあったといいます。
今回登場したキーワードには、
三井財閥、三井物産、東洋棉花(トーメン)、上海、紡績、トヨタ
などなど、がありますが、これらからある系図が連想されます。
黒田家がこの系図に関連があるかどうかはわかりませんが、
日本のトップ企業の産業史とも重なってくるこの人脈に
関連があったのは、間違いのないところでしょう。
そして、実際に現在、企業は、そういう方向に動いている。
そういう意味で黒田慶樹さんは、黒田家の歴史も重なり、まさに時代の流れの中、
登場してきた旬な人物と、私は勝手に考えています。
おおげさか・・・
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