近現代・系図ワールド
系図でみる近現代~夢・感動・人間!~

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系図でみる近現代 第31回

近現代人物のエピソード、系譜・閨閥など、系図を交えて紹介。

鹿内信隆 家系図 (※転載禁止)

第31回 かつて3代にわたり、フジサンケイグループを支配した鹿内家とは? (05.9.1記)

2005年2月より、70日間に渡るニッポン放送株をめぐるライブドアVS.フジテレビの攻防は、
まさに、新興勢力が、既存勢力に挑むという構図でした。

そして、またしても、堀江貴文ライブドア社長が、今度は政治の世界に場所を移し、
郵政民営化反対派急先鋒、亀井静香氏の広島6区に、殴りこみをかけました。

ホリエモンVS.しずかちゃん

と言われていますが、他にも民主党佐藤公治氏(父は佐藤守良元衆議院議員[自民→新生→新進] )
という強敵もおり、三つ巴の戦いとなっています。

ちなみに、広島でホリエモンを支援するのは、常石(つねいし)造船
5代に渡り神原(かんばら)一族が社長を務める地元有力企業。

ホリエモン最近の著書には、「勝つためのインターネットPR術」というのがあり、その共著者の名前は、
ホリエモンが社外取締役を務めるITベンチャー ニューズ・ツー・ユー社長神原弥奈子(みなこ)氏。
そして、その弟が、常石造船神原勝成社長という構図。

(神原勝太郎[初代]→神原秀夫[2代]→神原真人[3代]→神原治[4代]→神原勝成[5代])


「オールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」


話を本題に戻しますが、
ニッポン放送買収騒動で、防戦する側のニッポン放送・フジテレビは、
さすがマスコミ企業だけあって、かつて、知ったる方たちが首脳として登場してくるのが、
当初、楽しみのひとつでもありました。

♪オ~ルナ~イトニ~ッポ~ン  ビバ!!カメッショー♪

亀渕昭信ニッポン放送社長(現・取締役相談役)は、
昔、毎日のように、深夜放送でDJを務めていた時期があり(72年7月~73年6月)、
軽快なしゃべりと音楽を楽しませてくれました。
(ちなみに、妹はゴスペル歌手・亀渕友香[元リッキー&960ポンド ヴォーカリスト]

オールナイトニッポン大百科」では、若かりし頃の亀渕社長が、
レコード盤をかじっていたり、本を頭にのせ、アゴにもぶら下げている、 ひょうきんな写真が載っています。

そして、ひょうきんといえば、「オレたちひょうきん族」。

既に有名な話ですが、
その“ひょうきん懺悔室”で水を浴びせられたのが、編制局長時代の日枝久フジテレビ現会長。
オレたちひょうきん族 THE DVD 1985~1989 FINALに、そのシーンが収録されているようですが、
確か、よりいっそう目をギョロっとされていたような記憶があります。

そして、2005年になって、
フジテレビのニッポン放送子会社化・TOB成立を目前に控えた日枝会長は、
今度はライブドア堀江社長によって、
またしても、冷水を浴びせられるはめになった。


絶版本「閨閥~マスコミを支配しようとした男」


ライブドアVS.フジテレビ攻防の渦中3月に、ある一冊の本が話題になりました。
それは、閨閥~マスコミを支配しようとした男」 本所次郎/著

「勉強しましたよ。怨念の歴史を」
ホリエモンも読破したというその本は2004年5月発行でありながら、既に絶版という代物。

ネットオークションの世界でも人気化していましたが、
フィクションと銘打っているものの、限りなくノンフィクションに近いといわれ、
人物名や社名を実物とは、わずかに変えて(鹿内→鹿野 etc.)、実話のように話を展開した内容。

フジサンケイグループの生い立ちから、第3代議長鹿内(しかない)宏明解任クーデター事件(92年)、
そして、2003年に村上ファンドがニッポン放送株を取得する頃までが描かれている。

ホリエモンは、周囲に
「あの本の次の章は僕のことになる」と漏らしていたといいます。


北尾CEOと鹿内家


その後、両者の攻防戦が膠着状態が続く3月下旬、ホワイトナイト?として登場してきたのが、
北尾吉孝ソフトバンク・インベストメント(現・SBIホールディングス)CEO。

その北尾CEOが「大人の解決策がある」などと発言し、
少々、眉唾ですが、一部筋で噂に上った事柄がありました。

それは、日枝グループにより解任された3代議長鹿内宏明氏の長男・鹿内隆一郎氏が、
現在、メリルリンチ証券のM&A(企業の合併・買収)部門におり、北尾CEOとも親しく、
会食しながら、話し込んでいるところを何度も目撃されていたという事実により、
大人の解決策とは、鹿内家への“大政奉還”であると。


上記噂は、話が発展しすぎのきらいがありますが、
結局、北尾CEOの言うところの「大人の解決策」は、
ライブドア、フジテレビがその後、和解合意したこともあり、
陽の目を見ませんでしたが、一体それは、何だったのか興味のわくところです。


「メディアの支配者」 鹿内家


さて、その鹿内家
フジサンケイグループを一代にして築いた鹿内信隆初代議長は、
ニッポン放送・フジテレビ・産経新聞というラジオ・テレビ・新聞の三大メディアを
手中におさめ、マスコミ三冠王と異名をとった乱世の梟雄。

しかし、一方では、公共の電波媒体の私物化、ファミリー支配、鹿内恐怖政治などと、
毀誉褒貶も激しく、フジサンケイ残酷物語や、
フジテレビはよく、父子(フシ)テレビと揶揄を込めて言われもした。

その鹿内家及び鹿内家が支配したフジサンケイグループの実情や
鹿内宏明氏解任時や、その前後の状況を詳しく描いたノンフィクションが2005年6月に出ております。

お台場にあるフジテレビ本社ビルの球体展望室の写真が表紙カバーとなっている
メディアの支配者」 中川一徳/著


これらや、他・関連本から、
フジサンケイグループ会議議長鹿内家3代の変遷と系図を簡単にまとめておきます。





鹿内(しかない)家議長3代


鹿内信隆(初代)

戦後の復興期、財界は折からの左翼勢力の台頭に危機感を抱き、 これに対抗すべきマスコミ機関の設立を画策した。

そして、1954(昭和29)年、日本の名だたる一流企業205社(設立時)と、財界人が 株主として名を連ねるニッポン放送が設立された。

社長には、当時経団連副会長だった植村甲午郎が座り、 専務には、闘う日経連を標榜する日経連の戦闘隊長鹿内信隆が就いた。

信隆は強い実行力で頭角を現し、後に社長に就任する(61年)。
57年には、文化放送社長の水野成夫と協力して、フジテレビジョンを設立し、64年社長。
また、経営危機に陥っていた産経新聞社の再建にも、水野から引き継ぐ形で乗り出し、68年社長就任。

この課程でニッポン放送を頂点にフジテレビ、産経新聞が連なる資本関係が形成された

信隆は営業と企画重視の経営に徹しグループの業績を向上させる一方、
ニッポン放送の株を取得し、筆頭株主として君臨。
フジサンケイグループ会議議長という肩書きの信隆が、
全体を掌握する独特の経営スタイルが出来上がった。

また、箱根彫刻の森美術館、日本美術協会、上野の森美術館美ヶ原高原美術館など、
美術・芸術と関わりを持つことにより、シラク現仏大統領、シュミット独元首相、ヒース英元首相、
ファンファーニ伊元首相、米ロックフェラー家といった海外政財界要人や貴族、
そして、何といっても、日本では、皇室と人脈を築くに至った。

信隆は皇室や華族、財閥に連なる血縁を何も持っていなかった。
徒手空拳の庶民としてメディア支配の階段を上がってきた者にとって
手短に皇室と交わりを結ぶ方策として、美術というのは絶妙な素材であった。


鹿内春雄(2代)

1980(昭和55)年に、鹿内信隆は、視聴率が低迷していたフジテレビの出直し大改革を断行、
自ら強化本部長に就任し、70年にニッポン放送に入社していた長男・鹿内春雄
フジテレビ副社長兼本部長代理に据えた。

それに先立つ二、三年前には、春雄を筆頭株主にし、一族関連の持ち株で、
全株の過半数を握る個人支配を確立させていた。

この新体制のもと、編制局長に抜擢されたのが、日枝久現会長。
日枝と副社長の春雄の間でこういう会話があったといいます。

日枝:「あなたは現場では、親の七光りと嫌われ信頼されていません。その事を覚えておいて下さい。」

春雄:「そんな話をしてくれた者は初めてだ。」

春雄は信隆が本社から切り離した制作部門を吸収、元に戻すと同時に、
何をやっても良いという自由な雰囲気を創った。

若者・子ども向けの「軽(カル)チャー」路線、
「楽しくなければテレビじゃない」(81年)のコピーを掲げ、
82(昭和57)年から年間視聴率でTBSを抜くなど業績を大きく好転させた。

「笑ってる場合ですよ」それに続く「笑っていいとも!」や、「オレたちひょうきん族」
「なるほど!ザ・ワールド」「夕やけニャンニャン」などのヒット番組は社会現象をも生んだ。

1985年、春雄が二代目議長を引き継ぎ、信隆は箱根彫刻の森美術館館長に専念した。

春雄は「フジサンケイグループはメディア文化の覇権をめざす戦闘集団である」と宣言し、
役員一同が眉をひそめたシンボル「目ん玉マーク」の採用や、
グループ内役員の若返りを図るなど(日枝久・常務就任)、様々な改革を試みる一方で、
映画「南極物語」「ビルマの竪琴」「子猫物語」の製作・大キャンペーン、
「夢工場’87」などのイベントを展開し、話題になった。

また、産経新聞カラー化、紙面刷新、カタカナから漢字のレトロ調への題字変更や、
不振の「週刊サンケイ」を廃刊、「SPA!」の創刊など、“サンケイ大革命”を計画推進した。


しかし、トップの座について3年足らずの88(昭和63)年、 志半ば42歳の若さで急性肝不全のため急死した。

亡骸が置かれた自宅に、グループ幹部が、続々と詰めかけ、 日枝も枕元に崩れ落ちるように座り込み、また、台所で涙も隠さずに号泣していたという。

春雄は日枝にとって、なくてはならない後ろ盾でもあった。

春雄は8年前、B型肝炎を患っていた。しかし、母親・英子が祈祷師や漢方薬に凝り、
西洋医学や病院を一切信じず、病院にみせなかった事がその死の遠因ともいわれる。


鹿内宏明(3代)

父・信隆は春雄の死をうけてただちに議長に復帰し、春雄の死からわずか11日目に
興銀勤務の娘婿・佐藤宏明を養子縁組し、鹿内宏明として議長代行のポストに就かせた。(88年4月)

88年7月、日枝久が社長に就任、89年12月、宏明第3代議長に昇格。
90年10月、鹿内信隆死去。

宏明は春雄が進めた自由な社風に否定的だったといわれ、
春雄色に染まった軍団を徐々に自分色に塗り変えていこうとした。

そのため、切るか切られるか、切られる前に宏明を先に切ったとも言われ、
すなわち、92年7月、「経営者としての資質に問題あり」と 日枝グループによる、議長解任に発展した。

しかし、91年2月、宏明が設立していたフジサンケイコーポレーション(グループ本社)は、 自らの権力基盤を恣意的に強化したと指弾されたが、実のところ、 統轄責任者の下にグループを統合し意思決定の迅速化を図る合理的経営を目指したもので、
現在、グループ経営をやっているところが当たり前のように採用している持ち株会社であり、 当時の段階で既に、グループを効率的、機動的に運営する最良の仕組みを標榜し、実践したものだった。

また、宏明は時代の先端を行くメディア経営戦略をも打ち出していた。

銀行の国際畑を歩み、国際的視野・感覚には、長けていたが、 銀行の一課長から、42歳で突然マスコミ企業に乗り込んできて、 人心掌握術に欠けるところがあったのは否めなかった。

また、あくまで副次的な要素であるが、鹿内信隆未亡人・英子の宏明に対する確執もあったという。


クーデター中心人物・日枝久の弁。

「社長としてフジテレビをよりよく発展させるためには仕方がなかった。
クーデターだとか権力闘争だとか世間から批判されると思った。
それでも、健全に成長した放送局を次の世代に引き継ぐことが私の使命だと思った。
会社は個人のものではないし、ましてや世襲するものでもない。 何のためらいもなかったです。」

(参照:asahi.comフロントランナー)



左:鹿内信隆 右下:春雄 右上:宏明


鹿内春雄3度の結婚


鹿内春雄はニッポン放送に入社した1970年、知人の紹介で知り合った最初の妻と結婚。
72年には、長女が生れたものの、鹿内家との折り合いが悪く、破局。

夫婦間で子供を奪い合うという泥仕合にもつれ込み、軽井沢で、 子供を奪い返しにきた妻を春雄が車で引きずるという傷害事件にまで発展した。

81年4月、5年半に及ぶ調停を経て離婚が正式に成立。

81年5月には、老舗の紙問屋の一人娘と再婚。
彼女は短大一年の時、売れっ子作曲家だった平尾昌章と結婚、 一児をもうけたものの三年後には離婚しており、再婚同士のカップルだった。

しかし、82年7月、長男を産んでからわずか一ヶ月あまり後に、くも膜下出血で亡くなった。

84年8月、NHKから引き抜いてフジテレビ入りしていた美人看板アナウンサー頼近美津子と再々婚。
85年長男、86年次男をもうけるも、32歳の夫人を残して春雄は突然の死を迎えた。

一時は、春雄保有の株を相続し、
フジサンケイグループの総帥となると噂されたこともあった美津子も 信隆には、その考えは毛頭なく、宏明指名によりその可能性はなくなった。

すなわち、鹿内信隆の頭の中には、後継者は当初から、宏明しかない・・


美津子が育てていた春雄の二番目の妻の子は、美津子から引き離し、
これまた、信隆の養子として箱根の信隆夫妻の元で育てる事になった。

当時、宏明に長期リリーフさせたあと、この孫に、
大政奉還するというシナリオが一部では、公然の秘密として語られていたが、
実際、この件に関しては、あいまいさが残った。


この孫の元には、日枝側近が接触、フォローを続け、 日枝が将来を考えているという言質を与え、 フジサンケイグループ中核3社のうちの1社に就職が内定しているという。


また、春雄未亡人・頼近美津子が、一時期暮らしていたワシントンの高給コンドミニアムを 引き払う時、グループ本社が購入して事実上の経済援助を与えた。


そして、鹿内家の長女・奈月ひろ子の娘・鹿内植は、
現在フジテレビプロデューサーとして活躍している。


これらの事からも、宏明憎しの構図が浮んでくる。
クーデターの大義名分は「春雄は善、宏明は悪」であり、鹿内家を分断し、 クーデター後も一切、役職に付かせず、名誉も回復させなかった。

経営権は握っても、株式支配において全く基盤を持たない日枝は、 解任後も、夫婦合わせて13.1%のニッポン放送株を手放さなかった宏明の持ち株比率を 低下させる事に腐心せざるを得なかった。


持ち株を武器に宏明が復権をはかることイコール自分の首が飛ぶということであり、
日枝にとっては、恐怖以外のなにものでもなかった。


鹿内家3代のハイブリッド


ライブドア堀江貴文社長は、今回の買収騒動を起こし、表舞台に立った2月、 鹿内宏明氏のことをこう評しました。
「多少、(登場するのが)早すぎた経営者だった。」
さらに、自分自身の事を
「僕は自己分析をすると、信隆さんと春雄さんと宏明さんの三人のハイブリッド(複合)だと思ってます。」

何とも、すごい事をおっしゃるものですが、 すなわち、企業に対する野心・支配力を持ち、コンテンツへの中身への興味・好奇心があり、 グローバルな視野・感覚を持ち国際金融にも精通している!!


ニッポン放送株買収の根本


今回のライブドア騒動の根本は、元をただせば、13年前のクーデターの時点で、 小さなニッポン放送が、グループ中核企業フジテレビの株式を51%保有する筆頭株主であり、 そのニッポン放送の株を、解任された鹿内宏明氏が、13.1%保有し、 その後も頑として手放さなかった事から始まる。

持ち株比率を下げさせるために、ニッポン放送を上場させ(96年)、
また、フジテレビの過半数の株式を握っているニッポン放送に対しても同様に
持ち株比率を低下させるためにフジテレビを上場させた(97年)。
(2004年時点では、比率は下がったもののニッポン放送はフジテレビの22.5%の筆頭株主だった)

究極の目的は、鹿内宏明氏の影響力排除であった。

しかし、この株式を公開した事が、割安なニッポン放送を買収すれば、フジテレビを支配できると、 他者に付け入る隙を与え、一連の買収騒動に発展した。

長年の鹿内家支配の下、築き上げてきた株式の支配構造が、 今回のライブドアによる買収を招いた。


だから、

“きっかけは、鹿内家”

というのが、今回の買収騒動に至る本質のようです。


そらのる

●鹿内(しかない)家系図
鹿内信隆
鹿内信隆
(1911~90)/初代フジサンケイグループ会議議長/
北海道生まれ。1936(昭和11)年早大政経学部卒。
のちに早大総長になった恩師・阿部賢一(徳富蘇峰娘婿)の紹介で、
倉敷絹織(のちの倉敷レーヨン、現クラレ)に入社、菊池寅七専務の知遇を得て、
翌年、菊池が織物から金属、窯業の分野までカバーする三徳工業を創設、
その創立事務を手伝って同社の業務課長に抜擢された。その後、次女・英子と結婚、娘婿となった。
38年応召し、予備役召集第一回の幹部候補生として若松町の陸軍経理学校に進み、
のちに陸軍主計中尉となった。ここで、日清紡専務として軍との折衝にあたっていた桜田武や、
大日本再生製紙社長の水野成夫らと、需給計画の交渉を通じて知り合うことになる。
これが、信隆と財界人脈とを結ぶそもそもの機縁となった。
除隊後の43年、日産コンツェルン総帥で満州重工業開発総裁・鮎川義介
資金的なバックアップをしていた日本電子工業創立に参画。
戦時下におけるこうした産軍複合人脈ともいうべきコネクションが、
戦後、信隆を日経連の初代専務理事に押し立てる培養土となった。
戦後の追放から復帰後、経済同友会の創立に参加し、中央労働委員として47年の2・1ゼネストなどに対応、
48年日経連専務理事兼事務局長となり、労働問題の青年将校的役割を果たした。
54年財界出資のニッポン放送設立に加わり専務、61年社長。
57年水野成夫と協力して富士テレビジョン(のちフジテレビ)を設立して専務、64年社長。68年産経新聞社長、
69年彫刻の森美術館館長、74年フジ・サンケイグループ5社会議議長、85年同最高顧問となったが、
88年長男春雄の死去でニッポン放送、フジ、産経会長に復帰した。90年死去。
著書
鹿内春雄
鹿内春雄
(1945~88.4.16)/長男/第2代フジサンケイグループ会議議長/
北海道生まれ。1960年信英から、春雄に改名。1967(昭和42)年ボストン大経営学部中退。
70年、ニッポン放送に入社(24歳)、その後、経団連名誉会長・植村甲午郎の秘書を3年間務め、
経営企画室長、副社長を経て、80年フジテレビ代表取締役副社長に就任。
84年に人気キャスター頼近美津子と再々婚。
85年には、父信隆の跡を継いでFCG(フジサンケイ・コミュニケーショングループ)会議議長に就任。
同時にフジテレビ、サンケイ新聞、ニッポン放送の代表取締役会長となった。
「陽性でひらめきの人」(フジ幹部)だった春雄はカリスマ経営者としてグループの結束力を一段と高めたが、
88年急性肝不全のため42歳の若さで急死した。
頼近美津子 春雄の妻・鹿内美津子/コンサートプランナー、元アナウンサー/
父は米国籍を持つ日系2世。東京外語大英米語科卒業後、78(昭和53)年NHKに入局。
「ニュースワイド」「テレビファソラシド」を担当、その美貌と感じの良さで人気アナウンサーに。
81年退職してフジテレビへ移り、「小川宏ショー」のアシスタントで活躍。
84年結婚。88年夫を亡くし、90年二人の息子と共に渡米。
スミソニアンの美術館・博物館を日本に紹介する団体のボランティア・スタッフを務めた。
その後子育てに専念していたが、93年4月12年振りにNHKでテレビ出演。
96年NHK大河ドラマ「秀吉」に、お市の方役で出演。
同年12年振りにフジテレビに「来日直前!三大テノール」キャスターとして復帰。
現在、コンサートプランナーとしても活躍。
鹿内宏明 (1945~)/次女・鹿内厚子の夫/第3代フジサンケイグループ会議議長/旧姓佐藤、佐藤家は代々医者の家系
東京の医者の息子で、父は一高で同級生だった福田元首相とは、親友の間柄。
東大法学部を卒業して、日本興業銀行勤務。
中学時代はサッカー部、東大時代はボート部で活躍したスポーツマン。
88年信隆に請われ興銀を退職し議長代行に就任。
89年議長に昇格。ニッポン放送・フジテレビ・産経新聞社会長職も兼務。
91年フジサンケイコーポレーション(後にグループ本社が社名)設立。会長兼社長に就任。
92年7月、日枝グループクーデターにより、全ての役職を解任される。
奈月ひろ子
(なずき)
長女・鹿内寛子/女優(若柳菊→菊ひろ子→奈月ひろ子)/慶応大学法学部卒/
在学中の65(昭和40)年松竹演劇部に入り、67年退社。
同年若柳菊の芸名で三隅研次監督「古都憂愁・姉いもうと」で映画デビュー。
続いて同監督の「なみだ川」に出演し、京都記者クラブ新人賞を受賞した。
69年菊ひろ子と改名して「代紋・地獄の盃」などに出演。
のち、71年の「暁の挑戦」を最後に映画から遠ざかり、
73年石川県能登の山林王の息子と結婚し、一女をもうけるも78年に離婚。
80年奈月ひろ子と改名してカムバック。以後は舞台を中心にテレビドラマなどにも出演。
鹿内植(つぎ) 寛子の娘/フジテレビプロデューサー、「スローダンス」・「不機嫌なジーン」
佐藤大四郎
佐藤大四郎
(1909~43)/昭和期の満州合作社運動の指導者 (※合作社:農村協同組合)/宏明の叔父/
一校時代共産主義運動に関係し、地下に潜り放校。
1931年共産青年同盟に加盟、逮捕され、懲役2年(執行猶予5年)の判決を受けた。
33年保釈、翌年満州大連に渡り、橘樸(しらき)の思想的影響下にあった「満州評論」の編集責任者となる。
その後、橘・大塚譲三郎らと綏化県農事合作社を組織し、機関紙「農事合作社報」を創刊した。
その間、「橘樸著作集」の編集作業に着手。
また、満州及び蘇州・無錫・南京など中国各地方の合作社を視察した。
41年「満州評論」再建運動を開始したが、関東軍憲兵隊に捕えられ、
43年新京高等法院で満州国治安維持法(1941年制定)違反で徒刑12年の判決が下された。
なお、この年は満鉄調査部の一斉検挙が行われた年である。
43年5月奉天監獄で栄養失調のため死亡した。
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])





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●参考文献
メディアの支配者」中川一徳
真相 ライブドアvsフジ 日本を揺るがせた70日」日本経済新聞社/編集
あぶく銭師たちよ!~昭和虚人伝」(父子テレビの野望・鹿内春雄の殉職)佐野眞一
世代交代の嵐~トップ交代の現場」(第4章フジ・サンケイグループ~一族独裁体制の内幕)田原総一朗
総理を操った男たち~戦後財界戦国史」田原総一朗
フジサンケイグループの企業戦略」高橋敏昭
オールナイトニッポン大百科」オールナイトニッポン友の会/編集、ニッポン放送/監修
「閨閥~マスコミを支配しようとした男」本所次郎
「橘樸と佐藤大四郎~合作社事件・佐藤大四郎の生涯」田中武夫
テレビ・タレント人名事典(第5版)
コンサイス日本人名辞典 改訂新版
週刊文春2005年2月3日号「フジテレビ日枝会長独裁で鹿内一族の凋落」(写真も)
財界家系譜大観