| ●西本願寺大谷家系図 |
大谷光尊
(こうそん) |
1850〜1903/浄土真宗本願寺派第21世宗主/法名・明如(みょうにょ)/
20世宗主光沢(広如)の五男/
四男三女の父[母は三女・義子のみ正妻・枝子(しげこ/心光院)、
他は側室・お富士の方(円明院)]/
明治4年父・光沢の死により宗主を継承、明治5年島地黙雷・赤松連城らを海外に派遣、
彼らの補佐により、明治初年の政府の宗教政策に重要な位置を占めた。
明治政府の教部省の大教正となり、神仏合同大教院に出仕したが、
神道優先の大教院から真宗の四派で共に分離、教団の宗制・教育制度の近代化をはかり、
財政改革を行い、刑務所教誨・軍隊布教に当たるなど、
本願寺教団の近代的発展の基礎を築いた。
◆「西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊 」丹波元 |
大谷光瑞
(こうずい) |
1876〜1948/浄土真宗本願寺派本願寺第22世宗主/法名・鏡如/
21世宗主光尊の長男/妻・籌子(かずこ)貞明皇后の姉(九條道孝三女)
父・光尊の死により明治36年宗主を継承。
中国・インドの仏蹟を歩き、欧州に遊学するなど中央アジアでの探検活動が知られる。
神戸六甲山中腹の別邸に住み、教団の近代化すすめたが、
3回にわたる西域探検隊をはじめとする教団事業の出費のため多くの負債をつくり
大正3年、西本願寺疑獄事件を契機に退任。
引退後は、講演や中国・南洋・トルコなどで農園を経営し、海外で生活をおくる。
第二次大戦期には、近衛・小磯両内閣の参議・顧問を務めた。
◆著書・関連本
「大谷光瑞の生涯 」津本陽 |
大谷光明
(こうみょう) |
1885〜1961/浄土真宗本願寺派管長事務代理、アマゴルファー/法名・浄如/
光尊三男、妻は貞明皇后の妹(九條道孝七女)、長男光照が23世宗主を継ぐ/
明治40年欧米に遊学、語学とゴルフを身につける。
大正3年、新門だった大谷光明も兄光瑞と責任をともにして、門主就任を辞退。
大正14年、再び欧米を回り社会事業を視察。帰国後、真宗保摂会会長、
浄土真宗本願寺派審判院長、日本教学研究所長を歴任。
明治39〜42年と昭和14〜16年本願寺派管長事務代理を務めた。
一方、大正3年東京ゴルフクラブ会員となり、日本ゴルフ協会を創立、ルールブックの翻訳や
トーナメントの競技委員長などを務めた。「ゴルフ列伝日本の百年 大谷光明」 |
| 九条武子 |
1887〜1928/大正期の歌人、慈善事業家、西本願寺仏教婦人会会長、東京真宗夫人会会長/
/大谷光尊次女/
明治42年、男爵九条良致とと結婚。翌年夫とともに渡欧するが単身帰国、
以来、10余年独居生活。幼少から歌を習い、大正5年佐佐木信綱に師事し、「心の花」に参加。
憂愁の情や孤閨哀感を歌い、名家の女流歌人として世間の関心を集める。
歌集「金鈴」「薫染」「白孔雀」、歌文集「無憂華」、戯曲「洛北の秋」
◆著書・関連本
「九条武子―その生涯とあしあと 」籠谷真智子
「九条武子―北の無憂華 」谷川美津枝 |
九条良致
(よしむね) |
横浜正金銀行員/九条道孝五男、明治41年分家して男爵 |
大谷光照
(こうしょう) |
1911〜2002/浄土真宗本願寺派第23世宗主/法名・勝如/
◆著書・関連本
「『法縁』抄―勝如上人の九十年 」 |
大谷嬉子
(よしこ) |
第23世宗主裏方、浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟総裁/徳大寺実厚長女/
◆「親鸞聖人の妻恵信尼公の生涯」 |
| 徳大寺実厚 |
侍従、掌典長、平安神宮宮司/公爵 |
大谷光真
(こうしん) |
1945〜/浄土真宗本願寺派第24世門主/法名・即如/
全日本仏教会会長を三度務める。全国教誨師連盟総裁。
著書に「願いに応える人生 」「さとりと信心 」「まことのよろこび門主法話集 」
(以上、本願寺出版社)などがある。
◆著書・関連本
「世のなか安穏なれ―現代社会と仏教 」
「朝には紅顔ありて 」 |