近現代・系図ワールド
系図でみる近現代~夢・感動・人間!~

スマホ等でご覧の場合、「下に送る、拡大・縮小する」等は、系図外の部分をなぞって下さい。

スポンサーリンク

系図でみる近現代 第40回

近現代人物のエピソード、系譜・閨閥など、系図を交えて紹介。

西本願寺・大谷家 家系図  (※転載禁止)

第40回 近現代皇室に連なる西本願寺・大谷家。九条公爵家そして、大正天皇 (07.5.27記/のち加筆)

[系図]




神仏分離令・廃仏毀釈と西本願寺


明治維新の変革は宗教界にも大きな変動を引き起こした。

明治元年、新政府は王政復古による祭政一致の立場から、 古代以来の神仏混交を禁じて、神道を国教とする神仏分離令を打ち出した。

そのため、一時全国にわたって廃仏毀釈(仏教排斥)の嵐が、吹き荒れた。

そして、この事が、仏教界の覚醒運動を促す事にもなった。

西本願寺21世法主大谷光尊(明如)は、 沈滞を余儀なくされた仏教界の先頭に立ち、教団復活のために尽力した。

それを補佐したのが、浄土真宗本願寺派僧侶、
島地黙雷大洲鉄然赤松連城であり、彼らは、 本山改革を推進するとともに、政府に対し、政教分離・信教の自由を唱え、 新政府の神道国教化政策を批判、そして、崩壊に導いた。

廃仏毀釈の打撃を受け、神道に従属させられていた仏教も、 彼らの仏教界新生の努力により、立ち直っていった。

明治以降の西本願寺及び仏教界全体が、これら三人の僧侶によってリードされ、 窮地から救われることになるばかりか、西本願寺にあっては明如上人を補佐し、 近代教団へと脱皮するための牽引役ともなった。


大谷探検隊と大谷光瑞、そして籌子裏方


明治36年、西本願寺法主を継ぎ、 22世となったのが、光尊長男大谷光瑞(こうずい/鏡如)である。

中央アジア探検家として、世界に知られたその生涯は波乱に富んでいた。

仏教の教義、東遷の跡をきわめるための数々の調査・研究旅行。
特に中央アジア・西域、「シルクロード」への探検旅行は、 現代の先駆けとなるものであり、 楼蘭、敦煌などを訪れて貴重な仏教資料を手に入れた。

一方、六甲山麓に広大奇抜な別邸二楽荘を構え、 宗門の収入を湯水のように使い、この結果、財政破綻、 それに端を発した西本願寺疑獄を招いた。
大正3年、光瑞は責任を追及され、39歳で法主及び伯爵の地位から引退した。

その後は旧満州、中国の布教に力を入れたり、海外で農園を経営した。
また、近衛・小磯両内閣の参議・顧問を務めた。

大谷光瑞の妻・籌子(かずこ)は、 公爵九条道孝の三女で、明治31年に結婚。

五摂家の一つである九條家と本願寺は、昔より縁が深かった。

ちなみに、九条道孝の姉は、孝明天皇女御・英照皇太后である。
[参照:近現代天皇家(皇室)系図]

その後明治33年、籌子の妹・九条節子(さだこ)が、 皇太子(のちの大正天皇)とご成婚、 皇太子妃(のちの貞明皇后)となったことにより、 大谷光瑞は、皇室と義兄弟という関係で繋がることとなった。

また、東本願寺・大谷家とも九条家を通して繋がりがあり、 九条道孝から公爵を継いだ九条道実(みちざね)の妻・恵子(やすこ)は、 東本願寺22世法主・大谷光瑩の二女であった。


大谷光明・大谷尊由・九条武子


さらにその後、光瑞の弟・大谷光明(こうみょう)も九条家より、 籌子の妹・きぬ子(「きぬ」は糸へんに壬)を妻に迎えた。

また、光瑞・光明の妹・武子が、逆に籌子の弟・男爵九条良致(よしむね)に嫁いだ。
この西本願寺・大谷家出身の武子が、歌人としても有名な九条武子である。

すなわち、西本願寺・大谷家は、九条家と三重の繋がりを持つに至り、 九条家を通して、大正天皇・皇室へと繋がった。

ちなみに、もう一人、光瑞・光明の弟で、 第一次近衛内閣拓務大臣を務めたのが、大谷尊由(そんゆう)。
その長女の嫁ぎ先が、あの“華麗なる一族”岡崎家である。(参照:第34回系図

この関係からなのか、参議院議員をつとめた娘婿・岡崎真一は、 世界仏教徒大会日本代表として参加したり、仏教関係の著作を持つ。


22世法主大谷光瑞は明治45年、最愛の夫人・籌子を若くして失い、 生涯再婚しなかった。また、子供はなかった。


戦前、戦後の宗主・大谷光照


大正3年、光瑞が法主を退いた時、 新門だった弟・大谷光明も責任を共にして、法主就任を辞退した。

新々門であった光明の長男・大谷光照(勝如)は、まだ2歳であったので、 法主不在のまま、大谷家一門につながる者が管長代理を4代続け、 昭和2年、光照は15歳で得度して第23代法主となった。

昭和天皇のいとこにあたり、 また、大谷家は代々、親鸞の血をひく“生き仏”とも称されてきた。

光照は旧制一高、東大文学部東洋史学科を卒業した。
昭和52(1977)年に、宗門の若返りを標榜して退任するまで、 50年間「門主」職をつとめ、その後も、 前門(前門主)として、世界各地を巡教した。

戦前・戦中・戦後と激動の時代を、念仏とともに歩み、 国内・国外巡教の軌跡を記録したエピソードは、 「『法縁』抄―勝如上人の九十年」で、読むことができる。

また、光照の妹・正子は、公爵近衛文麿の嫡男・近衛文隆に嫁いだ。

しかし、文隆はわずか半年余りの結婚生活で前線に出かけ、 そして、敗戦、シベリア抑留となり、昭和31年死亡、夫妻は二度と会えなかった。


西本願寺は、敗戦後、GHQの指導のもとで、 宗制の改革を行い、宗主の権限を縮小し、 宗主は、西本願寺の“象徴”的存在へと変更となった。

なお、西本願寺の宗主は、戦前までは、法主または門跡と呼ばれたが、 戦後昭和21年より、門主と改称された。


24代門主・大谷光真


現在(2007年)の西本願寺の門主は光照の長男、大谷光真(即如)。
昭和52(1977)年、父の引退により、第24代門主に就任し、 既に30年間、門主を務める。

東大文学部を卒業後、宗門大学の龍谷大学大学院に進み、真宗学を専攻、 さらに東大の大学院に戻って印度哲学を専攻した。 父子二代にわたる東大出の門主である。

人に分かりやすい言葉で仏教、浄土真宗の教えを説き、 近年の著書には、「朝には紅顔ありて」がある。
また、「世のなか安穏なれ」では、仏教・浄土真宗の基礎から、 日本の仏教や教団の現状・今後の役割、“葬式仏教”に関してなど、 現代社会と仏教という観点から、率直に回答されている。


そして、次期西本願寺門主である新門には、 1977年生まれの長男・大谷光淳(専如)がついている。


追記

2014年6/5、1977年以来在位37年、大谷光真門主が退任。
6/6、大谷光淳新門が、「西本願寺」第25代門主に就任。




次回、第41回に東本願寺へと続く。



そらのる

●西本願寺大谷家系図
大谷光尊(こうそん)
大谷光尊
1850~1903/浄土真宗本願寺派第21世宗主/法名・明如(みょうにょ)/
20世宗主光沢(広如)の五男/
四男三女の父[母は三女・義子のみ正妻・枝子(しげこ/心光院)、他は側室・お富士の方(円明院)]/
明治4年父・光沢の死により宗主を継承、明治5年島地黙雷・赤松連城らを海外に派遣、
彼らの補佐により、明治初年の政府の宗教政策に重要な位置を占めた。
明治政府の教部省の大教正となり、神仏合同大教院に出仕したが、
神道優先の大教院から真宗の四派で共に分離、教団の宗制・教育制度の近代化をはかり、
財政改革を行い、刑務所教誨・軍隊布教に当たるなど、
本願寺教団の近代的発展の基礎を築いた。
西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊」丹波元
大谷光瑞(こうずい)
大谷光瑞
1876~1948/浄土真宗本願寺派本願寺第22世宗主/法名・鏡如/
21世宗主光尊の長男/妻・籌子(かずこ)貞明皇后の姉(九條道孝三女)
父・光尊の死により明治36年宗主を継承。
中国・インドの仏蹟を歩き、欧州に遊学するなど中央アジアでの探検活動が知られる。
神戸六甲山中腹の別邸に住み、教団の近代化すすめたが、
3回にわたる西域探検隊をはじめとする教団事業の出費のため多くの負債をつくり
大正3年、西本願寺疑獄事件を契機に退任。
引退後は、講演や中国・南洋・トルコなどで農園を経営し、海外で生活をおくる。
第二次大戦期には、近衛・小磯両内閣の参議・顧問を務めた。
大谷光瑞
大谷光瑞の生涯」津本陽
大谷光明(こうみょう)
大谷光明
1885~1961/浄土真宗本願寺派管長事務代理、アマゴルファー/法名・浄如/
光尊三男、妻は貞明皇后の妹(九條道孝七女)、長男光照が23世宗主を継ぐ/
明治40年欧米に遊学、語学とゴルフを身につける。
大正3年、新門だった大谷光明も兄光瑞と責任をともにして、門主就任を辞退。
大正14年、再び欧米を回り社会事業を視察。帰国後、真宗保摂会会長、
浄土真宗本願寺派審判院長、日本教学研究所長を歴任。
明治39~42年と昭和14~16年本願寺派管長事務代理を務めた。
一方、大正3年東京ゴルフクラブ会員となり、日本ゴルフ協会を創立、ルールブックの翻訳や
トーナメントの競技委員長などを務めた。「ゴルフ列伝日本の百年 大谷光明
九条武子
九条武子
1887~1928/大正期の歌人、慈善事業家、西本願寺仏教婦人会会長、東京真宗夫人会会長/
大谷光尊次女/
明治42年、男爵九条良致とと結婚。翌年夫とともに渡欧するが単身帰国、
以来、10余年独居生活。幼少から歌を習い、大正5年佐佐木信綱に師事し、「心の花」に参加。
憂愁の情や孤閨哀感を歌い、名家の女流歌人として世間の関心を集める。
歌集「金鈴」「薫染」「白孔雀」、歌文集「無憂華」、戯曲「洛北の秋」
関連系図
九条武子
九条武子―その生涯とあしあと」籠谷真智子
九条武子―北の無憂華」谷川美津枝
九条良致(よしむね) 横浜正金銀行員/九条道孝五男、明治41年分家して男爵
大谷光照(こうしょう)
大谷光照
1911~2002/浄土真宗本願寺派第23世宗主/法名・勝如/
大谷光照
『法縁』抄―勝如上人の九十年
大谷嬉子(よしこ) 第23世宗主裏方、浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟総裁/徳大寺実厚長女/
親鸞聖人の妻恵信尼公の生涯
徳大寺実厚 侍従、掌典長、平安神宮宮司/公爵
大谷光真(こうしん) 浄土真宗本願寺派第24世宗主(門主)、全日本仏教会会長、全国教誨師連盟総裁/
法名・即如/1945年生/
1974年結婚。1977年4月、第24代門主に就任。
2014年6月5日、門主を退任。
著書に「願いに応える人生」「さとりと信心」「まことのよろこび門主法話集
(以上、本願寺出版社)などがある。
大谷光真
世のなか安穏なれ―現代社会と仏教
朝には紅顔ありて
大谷範子 第24世宗主裏方、浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟総裁/
旧姓・田中/大谷光真の妻。光淳の母/
聖心女子大卒業後、上智大大学院に進み、臨床心理学を専攻。修士課程修了。
大谷光淳(こうじゅん) 浄土真宗本願寺派第25世宗主(門主)/法名・専如/1977年生/
1992年8月、得度し新門となる。2006年3月、龍谷大大学院学友で、
宮崎県都農町の信楽寺(しんぎょうじ)僧侶・古川流豆美と結婚。
08年4月、本願寺築地別院(現・築地本願寺)副住職に就任。
仏前結婚式を推進、首都圏伝道に注力。
2014年6月6日、第25代門主に就任。
大谷流豆美(るずみ) 第25世宗主裏方/旧姓・古川/大谷光淳の妻/
相愛大学で英米文学を学んだ後、龍谷大大学院で真宗学を専攻。文学研究科修士課程修了。
●関連人物
大洲鉄然
(おおずてつねん)
大洲鉄然
1834~1902/浄土真宗本願寺派僧侶/周防国生れ/
慶応2(1866)年の第二次長州戦争では護国団を組織して参戦。
明治維新後、本山改革を唱えて宗教行政の改編を行い、
島地黙雷の政教分離運動を支援し、真宗の大教院分離運動に参加。
その後要職を歴任。
島地黙雷
(しまじもくらい)
島地黙雷
1838~1911/浄土真宗本願寺派僧侶/周防佐波郡和田村専照寺/
養家を出奔して肥後・安芸両国で学び、帰藩後は大洲鉄然らの
宗風改革運動に加わる。
慶応2(1866)年大洲鉄然と共に改正局という学校を萩に開いて
防長の真宗僧徒の子弟を教育した。
明治初期に上洛し、宗門改革に参加。廃仏毀釈に抵抗し、
寺院寮や教部省の開設運動に奔走。
明治5年本山の西本願寺から海外の宗教事情を視察するため、欧州に派遣される。
在欧中から、明治政府に建議書を送り「三条教則」を批判し、
政教分離と信教の自由を主張した。
さらに明治6年帰国後、神仏合同の大教院分離を建白して、大教院を崩壊に導くなど、
政府の国民教化政策を瓦解させ、廃仏毀釈の打撃で、
神道に従属させられていた仏教の新生のために努力した。その功績は宗門を超えて、
仏教の救世主、近代宗教論の確立者として高く評価されている。
その後も仏教の発展に力を注ぎ、各地への布教活動に邁進、
西本願寺の執行をつとめる一方、明治21年女子文芸学舎(千代田女学園)をおこし、
その他社会改善に志して、日本赤十字の創立に参与するなど、
広い領域にわたって仏教界のために尽くした。
島地黙雷
赤松連城
(れんじょう)
赤松連城
1841~1919/浄土真宗本願寺派僧侶/
加賀国生れ、幼少から僧籍に入り、明治元年山口県徳山の徳応寺の養子となる/
大洲鉄然・島地黙雷とともに本山改革を推進した。
明治5年イギリスに留学。帰国後、宗門の教育改革を進め、
教部省管轄下の大教院での真宗分離運動にも尽力。
宗政の中枢をになったが、大正3年本山疑獄事件に連座して辞職、自坊に退いた。
子に男子なく、長女安子に歌人与謝野鉄幹の兄照幢を婿に迎え徳応寺を継がせた。
赤松連城資料
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])





カスタム検索




スポンサーリンク

近現代家系図
あ行 か行 さ行 た行
な行 は行 ま行 や行
ら行 わ行 政治 芸能
スポーツ 華族一覧
タカラヅカ人脈
TVドラマ相関図
「ザ・ベストテン」4要素大研究

スポンサーリンク


その時々の話題の人物、あるいは、旧華族・皇族や、近現代に活躍した人物を、家系図やリンク等を交えてエピソード、系譜・閨閥などを書き留めていくページです。

内容は基本的に書籍、新聞・雑誌等の文献、ネット上の新聞社・出版社、人物に関する公式サイト等、TV番組なども、参考に描いております。また、家系図に登場される方からの情報の場合もあります。

人物解説リンクは正式・正統な人物事典であるコトバンクにリンクを貼っています。



文章および画像の盗用(家系図のコピペ等)は、明確な著作権違反です。無断転載、一切、お断りいたします。


当サイト・ページのウィキペディアへの掲載は、一切、お断りいたします。

当サイトは著作権法に基づき、robots.txtで、日本系・外国系を問わず、ウェブ魚拓を拒否しております。


2014(平成26)年に最終改訂されている著作権法第七章第四条の四で、『robots.txtで情報の収集を拒否するページの情報収集の禁止』が定められています。
すなわち、ウェブ魚拓を取った者は、著作権侵害者になります。ご注意下さい。


ご理解の程、よろしくお願いいたします。

系図でみる近現代
1 2 3 4
5 6 7 8
9 10 11 12
13 14 15 16
17 18 19 20
21 22 23 24
25 26 27 28
29 30 31 32
33 34 35 36
37 38 39 40
41 42 43 44
45 46 47 48
49 50 51 52
53 54 - -
文献1 文献2 文献3 文献4
文献5 文献6 リンク -








 

●参考文献
門閥―旧華族階層の復権」佐藤朝泰
西本願寺第二十一代門主 明如上人抄―幕末明治期の仏教を救った男・大谷光尊」丹波元
日本のリーダー〈10〉未知への挑戦者(3章 大谷光瑞 仏教復興運動の先達 北小路健/著)」
『法縁』抄―勝如上人の九十年」大谷光照
試された女たち(3章 九條武子の孤独)」澤地久枝
うちのお寺は浄土真宗本願寺派(お西)
「週刊新潮」1974年8/29号・2006年4/6号[結婚]
京都新聞