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系図でみる近現代 第41回

近現代人物のエピソード、系譜・閨閥など、系図を交えて紹介。

東本願寺・大谷家 家系図  (※転載禁止)

第41回 近現代皇室に連なる東本願寺・大谷家。久邇宮家そして、昭和天皇。そして、お東紛争とは? (07.6.10記/のち加筆)

[系図]



幕末・維新の東本願寺


幕末、東本願寺は佐幕派であった。

徳川家康の強力なバックアップのもと誕生した東本願寺は、
江戸時代を通して、幕府と密接な関係を保ち、庇護を受けてきた。


幕末・維新動乱期の教団の指導者は、21世大谷光勝(厳如/ごんにょ)であった。
慶応3(1867)年、徳川慶喜が既に大政奉還を表明しているにもかかわらず、

「家康公以来の恩義を受けて今日あるので、末寺の門徒、僧侶による軍隊を
編成して幕軍の指揮下に入りたい」

との申し出を幕府に対して行っていた。


しかし、戊辰戦争が始まると、時代の潮流を感じたか、生き残り策を模索、
厳如上人は、伏見宮家出身の妻・和子(ともこ)の兄である勤王派の山階宮晃親王を介して、
朝廷に一札入れ、勤王方についた。  [系図参照]

そして、御所の警固や、倒幕運動の資金調達に全国を巡教、
多額の軍費、兵糧米を集め朝廷に献納したのであった。


北門(北海道)開拓


明治3年からの教団による北海道開拓事業は、
新政府の懲罰的な意味合いもあった。

父・厳如の命を受け、その責任者として北門(北海道)開拓に赴いたのは、
当時、新門であった次期法主22世大谷光瑩(こうえい/現如)であった。

その目的は、札幌までの新道開削、移民勧誘、教化(きょうけ)布教の三点であり、

その頃まだ、キリスト教排斥を掲げていた新政府にとって、
幕末から函館を中心に広がりつつあるキリスト教を廃絶させるためにも、
東本願寺の力は都合がよかったのである。


その後、大谷光瑩は明治5年に欧州を視察し、教団近代化のための見聞を広めた。
そして、明治22年に22世法主となり、明治29年政府より伯爵を授けられた。



俳人・大谷句仏と句仏事件


明治41年、23世大谷光演(彰如)が33歳で、父・光瑩から法主の座を引き継いだ。
書や絵画、俳句をたしなむ文化人であり、俳号を句仏(くぶつ)と称した。

河東碧梧桐や高浜虚子が入洛すると、枳殻邸(きこくてい)で句会を開くなど、
生涯に約2万句を詠んで、日本俳壇に独自の境地を開いた。


法主就任当時の東本願寺は、明治政府への献金、
北海道開拓への巨額の出費、本堂・大師堂の再建など、
無理に無理を重ねた結果、また、寺務総長の放漫な財政運営も重なり、
多額の負債を抱えていた。

句仏は、宗祖親鸞聖人の650回大遠忌を控えて、
就任早々、全国巡教・募財行脚の旅に出かけ、苦労の末、
それを完済し、大門や白書院などの名建築も完成させた。


しかし、利権目当ての側近・取り巻きらの甘言に乗せられ、
営利事業や、朝鮮での鉱山事業に手を出し、失敗、
多額の負債を背負うはめになり、大正14年法主を退いた。


そもそもの動機は、疲弊した寺財政を立て直し、
磐石の財政基盤を築こうという純粋なものだったといわれるが、
実業に携わるにしては、句仏は余りにも世間知らずであった。


24世法主・大谷光暢と智子裏方


句仏上人は財政乱脈の責任を問われて大正14年9月、法主の座を去り、
長男で21歳の大谷光暢[こうちょう/闡如(せんにょ)]が第24世法主に就任した。


光暢は、その前年の大正13年5月、新門時代に、
久邇宮家の三女・智子(さとこ)女王と結婚していた。

その姉である久邇宮家の長姉・良子(ながこ)女王が、
それに先立つ1月に、皇太子裕仁親王とご成婚。

そして、大正15年12月25日、 大正天皇崩御により、
裕仁親王が皇位に就き(昭和天皇)、良子女王は皇后となった(香淳皇后)。


東本願寺の門信徒にとっては、皇室と姻戚関係が出来たことは、
西本願寺とやっと肩を並べたことを意味する。

他教団からも、羨望の目でみられた慶事であった。


改革派・同朋(どうぼう)会運動


戦前の東本願寺の宗制は、議会制度を取り入れつつ、
親鸞の血を引く“生き仏”である法主が信仰上の権威と、
宗教上の権限を一身に掌握する「絶対主義的法主制」というべきものであった。


しかし、戦後、高度成長期に入った1960年代、
創価学会など新興宗教が、都心部で若年層を中心に
勢力を拡大、急成長し始めていた。

これに対して既成仏教教団は伝統的な地盤である農村社会の崩壊、
門徒の高齢化もあって、終始、守勢に立たされていた。


同朋会運動は、このままいけば教団存立基盤が足元から揺らぎかねない、
教団の体質改善が切実な課題であるという深刻な危機感を背景として、
清沢満之(宗教哲学者)によって確立された近代宗教学をバックボーンにしてスタートした。


この改革運動は、宗教改革、教団の民主化、
法主を“生き仏”と崇める伝統的な教団のあり方を否定、法主を象徴化し、
宗祖・親鸞に帰って、信仰の原点を見直そうというものであった。


ところが、改革派の前に巨大な壁が立ちはだかった。


それは“宗門天皇家”大谷家であった。


東本願寺紛争(お東紛争)


東本願寺の内紛が昭和44(1969)年、開申事件により表面化した。

この紛争に関しては、
東本願寺三十年紛争」(祖師に背いた教団―ドキュメント・東本願寺30年紛争の改定新装版)、
東本願寺の変―10年紛争を解く」、
貴族の死滅する日―東本願寺十年戦争の真相」などに、詳しい。


「宗祖親鸞に帰れ」をスローガンに信仰運動「同朋会運動」を推進する改革派と、
“宗門の天皇家”大谷家を中心とする伝統擁護・保守派とが熾烈な闘いを繰り広げた。


そして、新たに、宗門及び莫大な本願寺財産を私物視する大谷家、
とりわけ、法主四男・大谷暢道とその取り巻きによる
手形乱発や枳殻邸処分・巨額の借財問題が加わり、
紛争は違った様相を呈し始める。

この事に関して、
法主側は「巨額の借金は改革派と対抗するための活動資金」と説明してきた。

しかし、京都地検の捜査で次第に浮かび上がってきたのは、
四男・暢道を中心とする大谷家サイドの不始末と、
大谷家に群がる側近やブローカーらが、
光暢法主や智子裏方の世間知らずにつけ込んで、甘い汁を吸う黒い“たかりの構図”であった。

すなわち、いつか来た道であった。


事情をよく知る保守派のある高僧はこう言った。

「ご法主や裏方は世間の雑事は何もご存知ない。
あまりいい表現ではないが、明照院(みょうしょういん/四男・暢道の院号)や
武内(僧侶)、三池(門徒総代)はそれをよいことに、
してやりたい放題をやっている、というのが実態でしょうな。
あまりのひどさに新門(長男・大谷光紹)も霊源院(次男・大谷暢順の院号)も見放し、
かつては法主を改革派から守ろうとしていた保守派といわれる
僧侶たちも口出しをしなくなってしまったんです。」  [系図参照]

別の保守派の高僧も

「ご法主も裏方も、新門や霊源院の忠告には耳を貸そうとされない。
なんでも『明照院に相談してくれ』です」


四男・大谷暢道は、智子裏方が、戦後、乳母の手を借りず、
自分の手元で育てた初めての息子であり、裏方に溺愛されていた。



そして、昭和53(1978)年、法主による
「私が住職をしている本山・本願寺は、真宗大谷派から離脱・独立する」
という衝撃的な宗派離脱宣言があった。

しかし、昭和55年、側近の逮捕に加え、宗派離脱は京都府から却下され、
四男・暢道が逮捕寸前に陥り、法主の身辺にも捜査の手が及ぶ段になり、和解が成立した。

もし、法主側が本山運営の主導権を掌中にする事態にでもなれば、
利権目当ての法主側近によって、本願寺財産が次々に売却される事態を招いていたと言われる。

そこには、きれいごとでは済まされない権力闘争と財産争いのドロドロとした人間模様があった。


そして、ようやく昭和56(1981)年に、改革派により、象徴門首制が実現した。



和解の背後には、とてつもなく大きな力が動いたと言われる。
・・・すなわち、国家権力。

その使命は、もちろん、「皇室の権威を護るため」。

法主・大谷光暢は、昭和天皇の義弟であり、暢道は皇太子(現・天皇)のいとこであった。

言い方を換えれば、“大谷家救出作戦”でもあった。


門首継承問題


その後も、紆余曲折はあったが、
制度改革は、改革派の企図した通りに成就した。

昭和62年には、宗教法人「真宗大谷派」と宗教法人「本願寺」を合併(宗本一体化)し、
以後、東本願寺の正式名称は「真宗本廟(ほんびょう)」となった。


しかし、紛争はこれでは終わらず、
既に、次期門首継承問題が紛争の焦点となっていた。


“宗門の皇太子”新門として、次期宗主の座を約束されていた長男・光紹は、
昭和56(1981)年に自らが住職を務める東京別院、
浅草の東京本願寺を真宗大谷派から離脱・独立させた。

これにより、光紹は真宗大谷派の新門をはずれ、その長男・大谷光見が新門に指名された。

しかし、父・光紹が昭和63(1988)年、浄土真宗東本願寺派を結成し、
東本願寺第25世法主に就任すると宣言、
光見は東本願寺派独自の報恩講に、父とともに出仕した事により、
新門の地位を剥奪された。


そしてその後、新門に指名されたのが、門首次男・大谷暢順の長男、
弱冠15歳の高校1年生、大谷業成(なりしげ)であった。  [系図参照]


平成元年に、智子裏方が、亡くなり、
平成5年には、24世門首大谷光暢が死去した。



25世門首・大谷暢顕


平成5年、門首逝去により、大谷業成が門首の座を継承した。

ところが、平成8年に、父・暢順が理事長を務める本願寺維持財団の運営などをめぐる
内局との対立から、大谷暢順・業成父子が宗派からの離脱を宣言。

門首の座が一時期、空白になるという異常事態を経て、
これまで、全く公式の席には姿を見せず、
紛争にも関わってこなかった光暢三男・大谷暢顕(ちょうけん)が新門首に選出された。

暢顕は、以前から僧籍はあったが寺は持たず、アパート暮らしも経験した元サラリーマンであった。


門首継承式をしていなかった大谷業成の名を歴代門首の記録に残さず、
24世門首大谷光暢の後継者を暢顕とする事も決定した。


平成8(1996)年11月21日、真宗大谷派・東本願寺(真宗本廟)で、
71年ぶりに門首継承の式典が営まれ、
正式に大谷暢顕は、第25世門首の座についた。

兄弟は誰一人として、門首継承式及び披露宴に招かれてはいなかった。


東本願寺紛争は、お東さんの十年内紛とか二十年内紛とか呼ばれてきたが、
発端から暢顕門首の誕生で一応の決着がつくまでには、実に27年という年月を要した。


そして、その流れで、現在に至っている。

ただし、大谷暢顕門首に子どもは、いない。

また、他の三兄弟(長男・光紹は平成11年逝去)は、それぞれの道を歩んでいる。
下記参照)


それぞれが、「本願寺」という名称の乱発で、正直、ややこしすぎるのであるが・・・。

追記

2014年4月30日、18年間不在の東本願寺門首後継者が決定!

継承審議会において、ブラジル国籍を持つ大谷暢裕(ちょうゆう)鍵役が門首後継者に選定された。
大谷光暢24代門首の弟・大谷暢慶南米開教使の長男で、大谷暢顕門首のいとこにあたる。



次回、第42回は、引き続き、東京本願寺、浄土真宗東本願寺派に関して。
直接は関係ないが、小泉元首相の名も登場・・。



そらのる

●東本願寺・大谷家系図
大谷光勝
大谷光勝
1817~1894/真宗大谷派21世法主/法名・厳如(ごんにょ)/
1846年父・光朗(こうろう/達如)の隠退で法主となり、
1860年徳川家からの用材寄進により焼失した本堂を再建、家康廟を堂側に建立。
1863年軍費1万両を幕府に献納。1866年徳川家より5万両の寄進を受けるなどしたが、
明治元年、勤王の立場に立ち、東海・北陸の門徒地帯を巡教して軍費1万両、米4千俵を
集め朝廷に献納した。明治期以降は北海道の開拓と布教、
本山寺務、教育制度の近代化に当たり、海外布教にも着手した。
明治5年華族に列せられる。明治22年法主を光瑩に譲って隠退した。
大谷光瑩(こうえい)
大谷光瑩
1852~1923/真宗大谷派22世法主/法名・現如(げんにょ)/
父は21世光勝(厳如)、母は伏見宮邦家親王の娘・和子/
明治新政府樹立によって苦境に立たされた東本願寺を救うため、
父・厳如の命を受けて明治3年北海道開拓に赴く。
伊達~札幌間の新道開削を果たし、布教の拠点として札幌に
東本願寺管刹(のちの札幌別院)を建立。
明治5年石川舜台とはかり、松本白華・成島柳北らをしたがえて欧州視察。
明治22年に22世法主となる。28年、本堂、大師堂の再建事業を成し遂げた。
明治29年伯爵を授けられた。
大谷光演
大谷光演
1875~1943/真宗大谷派23世法主、俳人/法名・彰如(しょうにょ)/俳号・大谷句仏(くぶつ)
光瑩の次男で、10歳で得度。明治31年清沢満之らの宗門改革を支援。
明治33年まで東京で南条文雄、村上専精、井上円了らについて修学。
明治41年23世法主を継ぎ、管長となった。明治44年宗祖650回遠忌を修した。
全国を募財行脚して、借財整理と伽藍復興事業を完成させるという大きな業績を残す一方で、
利権目当ての側近らの甘言に乗せられ、営利事業、朝鮮で鉱山事業に手を出して失敗、
多額の負債を背負い、大正14年法主を退いた。
書画、俳句をよくし、深い教養と高い風格を備えた文化人だった。
正岡子規の新しい俳句論に触発されて俳句に開眼し、
明治31年「ホトトギス」により高浜虚子、河東碧梧桐に選評を乞い、
河東碧梧桐に私淑した。(のち決別、独自の道を歩む)
生涯に約2万句も詠んで、日本俳壇に独自の境地を開いた。
大正3年以降は雑誌「懸葵」を主催。句集「夢の跡」「我は我」「句仏句集」などがある。
書は杉山三郎に師事、絵画は幸野棋嶺、竹内栖鳳に学んだ。画集「余事画冊」がある。
大谷句仏
自然のままに―彰如上人五十回忌法要記念随想集」真宗大谷派宗務所出版部
大谷光暢(こうちょう)
大谷光暢
1903~1993/真宗大谷派24世法主/法名・闡如(せんにょ)/
明治36年10月1日、東本願寺第23世大谷光演の長男、
母は維新の元勲・三条実美の四女・章子(ふみこ)/
13歳で得度し、大谷中学から大谷高校へと進んだ。
大正13年5月3日に、久邇宮家三女の智子(さとこ)女王と結婚。
当時、新門で大谷大学の学生であった。智子女王は結婚時17歳。
光暢との縁組が整ったのはその5年前で、婚約と同時に京都に住まいを移し、
京都府立京都第一高等女学校卒業を待って、婚礼の運びとなった。
法主の座に21歳の若さで就き、のち布教のため欧米、ブラジルを視察。
真宗大谷派では大谷家が、法主・管長・本山住職を三位一体で世襲してきたが、
光暢が、内局に事前に諮ることなく「管長職を光紹新門に譲る」と発表(開申事件)。
昭和44年宗派内局から反対論が起き、内紛となる(お東紛争)。
56年三位を廃止し、象徴門首制度を採用することになり、同年門首に就任。
宗門トップの座にあった期間は実に67年余に及んだ。
大谷瑩潤(えいじゅん)
大谷瑩潤
1890~1973/真宗大谷派宗務課長、衆議院議員、参議院議員、
日中友好宗教者懇話会名誉会長/22世法主大谷光瑩の11男/
明治43年から死去まで函館大谷派別院浄玄寺住職を務める。
大正14年欧米留学、真宗大谷派宗務課長、全日本仏教青年会連盟理事長を経て、
昭和21年愛知2区から衆議院議員に当選、25年全国区から参議院議員に当選。
自民党総務。安保条約改定時の35年、中国敵視の条約として自民党を脱党。
平成12年強制連行された中国人の遺骨送還に尽力した功績を称え、
真宗大谷派と中国仏教教会との共同で中国山西省交城県の玄中寺に顕彰碑が建立された。
新中国見聞記
大谷演慧(えんね) 門首代行、真宗大谷派函館別院住職/光暢従兄弟/
訓覇(くるべ)内局で参務、嶺藤宗務総長のもとで式務部長を務めるなど、
改革運動にも理解を示し、内局と大谷家とのパイプ役をつとめてきた。
平成5年、門首に指名された大谷業成が20歳を迎えるまでの門首代行に就任。
大谷智子(さとこ)
大谷智子
1906~1989/裏方(法主夫人)、全日本仏教婦人連盟会長、大谷婦人会会長、
光華女子学園創立者/久邇宮邦彦三女、長姉が香淳皇后/
光華のごとくに
「光華抄」
大谷光紹(こうしょう)
大谷光紹
1925~1999/長男/浄土真宗東本願寺派第25世法主/
関連:「系図でみる近現代 第42回
浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
牛久大仏
大谷光紹
東本願寺 大谷光紹
大谷光見(こうけん) 浄土真宗東本願寺派第26世法主/大谷光紹長男/
平成11年父・光紹の死後、13年法主に就任
大谷暢順(ちょうじゅん) 次男/本願寺維持財団理事長/院号・霊源院/
本願寺大谷WEB
東本願寺 東山浄苑
大谷暢順
仏を現代に求めて―笠原一男対論大谷暢順
「死のない生に夢はない」
大谷業成(なりしげ)
[大谷光輪]
東山上花山・本願寺門主/大谷暢順長男/現・大谷光輪/
24世大谷光暢門首逝去により、後継門首に就任するも、平成8年、父子で宗派を離脱。
門首継承式をしていなかったため、東本願寺歴代門首の記録には残らず。
大谷暢顕(ちょうけん) 三男/東本願寺(真宗大谷派)第25世門首/法名・浄如/
真宗大谷派(東本願寺)
大谷暢道(ちょうどう)
[大谷光道]
四男/院号・明照院/現・大谷光道/
最後まで父・光暢24世門首と行動を共にし、
東本願寺財産をめぐるスキャンダルの実質的な責任者と目され、
連枝(門首継承権のある大谷家の男子)の身分を剥奪された。
光暢死後、「法主の座は暢道師に継承させる」との遺言を公表。
「故人の遺志を尊重して、第25世法主を継承する」と宣言。
ただし、故人の署名・捺印はあるものの、正規の遺言書として
法的効力を持たせるために必要な日付はなかった。
真宗大谷派は遺言書に関しては「真偽を問わず何の意味もない」と黙殺。
また、相続に関しては、兄姉5人ともがそろって相続を放棄、
暢道一人が相続手続きを取り、係争中の訴訟も引き継ぐ事となり、
大谷家当主を名乗る。

(以下・2007年2月7日 asahi.com より)
お東紛争で大谷派離脱 四男・光道さんが「本願寺」設立
東本願寺(京都市下京区)を舞台に
真宗大谷派と大谷家が対立した「お東紛争」で僧籍を削除され、
同派を離脱した大谷光道(こうどう)さん(62)=故・大谷光暢元門首の四男=が、
同市右京区に宗教法人「本願寺」を設立した、と7日発表した。
大谷さんは05年、寺務所を構えていた東本願寺内から退去し、
同区に「大谷本願寺」を新しく建てた。
宗教法人設立に伴い、大谷本願寺は「本願寺」と名を変え、大谷さんは法主を名乗る。
今後、本堂を建て、法要を開くなど、布教に努めるという。
大谷暢慶(ちょうきょう) 真宗大谷派南米開教使/院号・能明院/
24代門首大谷光暢の弟/
大谷暢裕(ちょうゆう) 真宗大谷派門首後継者、鍵役・開教司教/
大谷暢慶長男。大谷暢顕25代門首のいとこ/1951年生。ブラジル国籍・ブラジル在住/
サンパウロ州立大学卒。物理学者として航空技術研究所に勤務した。
1992年得度。2011年鍵役・開教司教に就任。2014年4月30日、門首後継者に選定される。
●関連人物
清沢満之(まんし)
清沢満之
1863~1903/宗教哲学者、真宗大谷派僧侶、大谷大学初代学長/
尾張藩下級藩士・徳永永則の家に生まれる。
明治11年、真宗大谷派本山で16歳で得度して東本願寺育英教校に入学。
東大へ進学し西洋哲学を学ぶ。
明治21年真宗大谷派の京都府尋常中学校校長となり、高倉学僚でも宗教哲学を講じた。
同年結婚により、愛知県大浜の西方寺住職となり清沢姓を継ぐ。
また、宗門改革運動にかかわり、白川党に参加して活動したが、30年除名された。
32年僧籍を回復、大谷光演の招請で東上、教導に当たった。
明治維新後、西洋近代思想が流入するなかで、
封建時代の遺物と化そうとした真宗を、厳しい求道心と近代的知性で問い直した。
のち真宗大学(大谷大学)初代学監(学長)に就任。
西方寺で40年の生涯を終えた。
清沢満之
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])





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●参考文献
門閥―旧華族階層の復権」佐藤朝泰
東本願寺三十年紛争」田原由紀雄
東本願寺の変―10年紛争を解く」上之郷利昭
貴族の死滅する日―東本願寺十年戦争の真相」落合誓子
京都に蠢く懲りない面々―淫靡な実力者たち」湯浅 俊彦、一ノ宮 美成、グループK21
うちのお寺は真宗大谷派(お東)
週刊新潮
京都新聞