| ●東本願寺・大谷家系図 |
| 大谷光勝 |
1817〜1894/真宗大谷派21世法主/法名・厳如(ごんにょ)/
1846年父・光朗(こうろう/達如)の隠退で法主となり、
1860年徳川家からの用材寄進により焼失した本堂を再建、家康廟を堂側に建立。
1863年軍費1万両を幕府に献納。1866年徳川家より5万両の寄進を受けるなどしたが、
明治元年、勤王の立場に立ち、東海・北陸の門徒地帯を巡教して軍費1万両、米4千俵を
集め朝廷に献納した。明治期以降は北海道の開拓と布教、
本山寺務、教育制度の近代化に当たり、海外布教にも着手した。
明治5年華族に列せられる。明治22年法主を光瑩に譲って隠退した。 |
大谷光瑩
(こうえい) |
1852〜1923/真宗大谷派22世法主/法名・現如(げんにょ)/
父は21世光勝(厳如)、母は伏見宮邦家親王の娘・和子/
明治新政府樹立によって苦境に立たされた東本願寺を救うため、
父・厳如の命を受けて明治3年北海道開拓に赴く。
伊達〜札幌間の新道開削を果たし、布教の拠点として札幌に
東本願寺管刹(のちの札幌別院)を建立。
明治5年石川舜台とはかり、松本白華・成島柳北らをしたがえて欧州視察。
明治22年に22世法主となる。28年、本堂、大師堂の再建事業を成し遂げた。
明治29年伯爵を授けられた。 |
| 大谷光演 |
1875〜1943/真宗大谷派23世法主、俳人/法名・彰如(しょうにょ)/俳号・大谷句仏(くぶつ)
光瑩の次男で、10歳で得度。明治31年清沢満之らの宗門改革を支援。
明治33年まで東京で南条文雄、村上専精、井上円了らについて修学。
明治41年23世法主を継ぎ、管長となった。明治44年宗祖650回遠忌を修した。
全国を募財行脚して、借財整理と伽藍復興事業を完成させるという大きな業績を残す一方で、
利権目当ての側近らの甘言に乗せられ、営利事業、朝鮮で鉱山事業に手を出して失敗、
多額の負債を背負い、大正14年法主を退いた。
書画、俳句をよくし、深い教養と高い風格を備えた文化人だった。
正岡子規の新しい俳句論に触発されて俳句に開眼し、
明治31年「ホトトギス」により高浜虚子、河東碧梧桐に選評を乞い、
河東碧梧桐に私淑した。(のち決別、独自の道を歩む)
生涯に約2万句も詠んで、日本俳壇に独自の境地を開いた。
大正3年以降は雑誌「懸葵」を主催。句集「夢の跡」「我は我」「句仏句集」などがある。
書は杉山三郎に師事、絵画は幸野棋嶺、竹内栖鳳に学んだ。画集「余事画冊」がある。
◆大谷句仏著書・関連本
「自然のままに―彰如上人五十回忌法要記念随想集 」真宗大谷派宗務所出版部 |
大谷光暢
(こうちょう) |
1903〜1993/真宗大谷派24世法主/法名・闡如(せんにょ)/
明治36年10月1日、東本願寺第23世大谷光演の長男、
母は維新の元勲・三条実美の四女・章子(ふみこ)/
13歳で得度し、大谷中学から大谷高校へと進んだ。
大正13年5月3日に、久邇宮家三女の智子(さとこ)女王と結婚。
当時、新門で大谷大学の学生であった。智子女王は結婚時17歳。
光暢との縁組が整ったのはその5年前で、婚約と同時に京都に住まいを移し、
京都府立京都第一高等女学校卒業を待って、婚礼の運びとなった。
法主の座に21歳の若さで就き、のち布教のため欧米、ブラジルを視察。
真宗大谷派では大谷家が法主・管長・本山住職を三位一体で世襲してきたが、
光暢が、内局に事前に諮ることなく「管長職を光紹新門に譲る」と発表(開申事件)。
昭和44年宗派内局から反対論が起き、内紛となる(お東紛争)。
56年三位を廃止し、象徴門首制度を採用することになり、同年門首に就任。 宗門トップの座にあった期間は実に67年余に及んだ。 |
大谷瑩潤
(えいじゅん) |
1890〜1973/真宗大谷派宗務課長、衆議院議員、参議院議員、
日中友好宗教者懇話会名誉会長/22世法主大谷光瑩の11男/
明治43年から死去まで函館大谷派別院浄玄寺住職を務める。
大正14年欧米留学、真宗大谷派宗務課長、全日本仏教青年会連盟理事長を経て、
昭和21年愛知2区から衆議院議員に当選、25年全国区から参議院議員に当選。
自民党総務。安保条約改定時の35年、中国敵視の条約として自民党を脱党。
平成12年強制連行された中国人の遺骨送還に尽力した功績を称え、
真宗大谷派と中国仏教教会との共同で中国山西省交城県の玄中寺に顕彰碑が建立された。
◆著書
「新中国見聞記」 |
大谷演慧
(えんね) |
門首代行、真宗大谷派函館別院住職/光暢従兄弟/
訓覇(くるべ)内局で参務、嶺藤宗務総長のもとで式務部長を務めるなど、
改革運動にも理解を示し、内局と大谷家とのパイプ役をつとめてきた。
平成5年、門首に指名された大谷業成が20歳を迎えるまでの門首代行に就任。 |
大谷智子
(さとこ) |
1906〜1989/裏方(法主夫人)、全日本仏教婦人連盟会長、大谷婦人会会長、
光華女子学園創立者/久邇宮邦彦三女、長姉が香淳皇后/
◆著書
「光華のごとくに 」
「光華抄」 |
大谷光紹
(こうしょう) |
1925〜1999/長男/浄土真宗東本願寺派第25世法主/
大正14年生まれ、昭和9年得度。昭和21年、京都大学文学部史学科卒。
昭和25年より渡米、ハーバード大学、クレアモント大学、コロンビア大学等で、
宗教哲学などを学び、欧州各国を歴訪。
帰国後、全日本仏教青年会初代会長等を歴任。
昭和41年東京本願寺住職。昭和56年真宗大谷派から離脱・独立。
昭和63(1988)年、浄土真宗東本願寺派を結成、東本願寺第25世法主への就任を宣言。
■関連HP
浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺
牛久大仏
◆著書・関連本
「こころの軌跡 」
「東本願寺 大谷光紹 」 |
大谷光見
(こうけん) |
浄土真宗東本願寺派第26世法主/大谷光紹長男/早大理工学部卒/
平成11年父・光紹の死後、13年法主に就任 |
大谷暢順
(ちょうじゅん) |
次男/本願寺維持財団理事長/院号・霊源院/
■関連HP
本願寺大谷WEB
東本願寺 東山浄苑
◆著書・関連本
「仏を現代に求めて―笠原一男対論大谷暢順 」 「死のない生に夢はない」 |
大谷業成
(なりしげ) |
東山上花山・本願寺門主/大谷暢順長男/現・大谷光輪/
24世大谷光暢門首逝去により、後継門首に就任するも、平成8年、父子で宗派を離脱。
門首継承式をしていなかったため、東本願寺歴代門首の記録には残らず。 |
大谷暢顕
(ちょうけん) |
三男/東本願寺(真宗大谷派)第25世門首/法名・浄如/
■関連HP
真宗大谷派(東本願寺) |
大谷暢道
(ちょうどう) |
四男/院号・明照院/現・大谷光道/
最後まで父・光暢24世門首と行動を共にし、
東本願寺財産をめぐるスキャンダルの実質的な責任者と目され、
連枝(門首継承権のある大谷家の男子)の身分を剥奪された。
光暢死後、「法主の座は暢道師に継承させる」との遺言を公表。
「故人の遺志を尊重して、第25世法主を継承する」と宣言。
ただし、故人の署名・捺印はあるものの、正規の遺言書として
法的効力を持たせるために必要な日付はなかった。
真宗大谷派は遺言書に関しては「真偽を問わず何の意味もない」と黙殺。
また、相続に関しては、兄姉5人ともがそろって相続を放棄、
暢道一人が相続手続きを取り、係争中の訴訟も引き継ぐ事となり、
大谷家当主を名乗る。
(以下・2007年2月7日 asahi.com より)
●お東紛争で大谷派離脱 四男・光道さんが「本願寺」設立
東本願寺(京都市下京区)を舞台に
真宗大谷派と大谷家が対立した「お東紛争」で僧籍を削除され、
同派を離脱した大谷光道(こうどう)さん(62)=故・大谷光暢元門首の四男=が、
同市右京区に宗教法人「本願寺」を設立した、と7日発表した。
大谷さんは05年、寺務所を構えていた東本願寺内から退去し、
同区に「大谷本願寺」を新しく建てた。
宗教法人設立に伴い、大谷本願寺は「本願寺」と名を変え、大谷さんは法主を名乗る。
今後、本堂を建て、法要を開くなど、布教に努めるという。 |