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系図でみる近現代 第48回

近現代人物のエピソード、系譜・閨閥など、系図を交えて紹介。

前田正名 家系図  (※転載禁止)

第48回 地方の“殖産興業”に生涯を捧げた、男爵・前田正名。そして、“阿寒の母”と呼ばれた元タカラジェンヌ・前田光子 (08.11.24記)

薩摩藩士・前田正名


前田正名(まさな)は、1850(嘉永3)年、薩摩藩士の貧しい漢方医の六男に生まれ、
経済官僚を経て、産業運動指導者として、地方産業振興に貢献した。


前田は、15歳年上の兄・前田献吉と、高橋新吉と共に、
日本初の活版印刷・和訳英辞書(通称「薩摩辞書」)を編纂し、
明治2年、この辞書の政府買上げ金と、国費により、留学生の指名を受けた。
これは、大久保利通大隈重信の計らいによるものであった。

約7年間のフランス留学を経て、明治10年帰国。
そして、明治11年のパリ万国博への参加を大久保利通に進言し、
大久保は、前田の意見を全面的に容れて、パリ万博参加準備を前田に一任した。

万博開始直後に、大久保の暗殺という悲報に遭遇したが、
松方正義や前田を中心として万博は推進された。

大久保亡き後、松方や前田は、
大久保利通の“殖産興業”政策の継承者として、邁進する事となる。


妻は大久保利通の姪


大久保が、明治11年5月、凶刃に倒れ、同年、夫人・満寿子も死去したため、
大久保家の親族・石原家の依頼で、前田は帰国後、大久保邸に逗留していた。

石原家の二女・イチはそこで、彦熊(利和)・伸熊(牧野伸顕)・三熊(利武)など、
両親を失った大久保家の子供達の面倒を見ていた。
そのため、前田正名とイチの間には、ごく自然に愛が芽生えたという。

そして、明治14年、前田正名は、松方正義を媒酌人、大隈重信を親代わりとして、
大久保利通の姪・石原イチと大久保邸で結婚式を挙げたのであった。
大資本工業 Vs.地方在来産業


明治14年の政変により、大隈重信は下野し、
国家財政の中枢を占めたのは、松方正義であった。

松方は、特定政商を保護、大資本工業による殖産興業を推進、
日本資本主義の方向性を確立しつつあった。


それに対して、前田は、“松方デフレ”による地方在来産業の没落を目の当たりにし、
輸出部門を中心とする地方中小工業・農業優先の近代化を主張した。

17年に、この主張をもとに、体系的経済計画である「興業意見」の編纂を
農商務省内で始めるが、松方ら政府主流に否定され、挫折する結果となった。


松方と前田はともに、大久保利通の殖産興業政策を継承しつつも、
その重点の置き所を異にする、まさに、同床異夢であった。

のち、前田は、23年に農商務次官となるも、半年で辞任するに至った。


全国行脚、「布衣の農相」


前田正名が、上記以外、永久に名をとどめられるべき所以は、
日本各地を幾度も巡回し、全国行脚した事にあった。

官を辞し、野に下ってから、大正10年に没するまで、
ほぼ一生涯に渡り、全国津々浦々を隈なく、行脚遊説した。

それは、地方産業の振興・近代化を推進し、
諸団体の組織化を提唱、さらには、農村計画運動を盛り上げる事であった。

この地方産業振興運動が生み出した、一つの注目すべきケースとしては、
郡是製糸株式会社(グンゼ/創業者・波多野鶴吉)の設立があった。


そして、「興業意見」以来の念願であった、
各種の近代的制度・法律・施設を不十分ながら勝ち取って行き、
それらは、その後の農業・中小工業の発展にとって重要な基礎となっていった。


前田は全く潔癖で、厳しく、すきのない古武士のようであった。
また、直情径行的で、思ったことは誰にも遠慮なく言い、
お世辞などは絶対に言わなかった

前田正名は、再び官に戻ることなく、野にあって終始一貫、
その志を貫き続け、“布衣(ほい/無冠)の農相”と呼ばれた。


そして、大正10年に亡くなり、同日付で男爵を授けられた。



タカラジェンヌ・文屋秀子と前田一歩園


昭和11年、二男であった前田正次に嫁いだのは、25歳年下の、
元タカラジェンヌ・前田光子(旧姓・安原)であった。
タカラヅカ時代の芸名を、文屋(ぶんや)秀子と言った。

昭和2年、宝塚音楽歌劇学校に16歳で入学。
タカラジェンヌとして活躍後、昭和7年に退団。

1年下には、戦前の男役スターで、小夜福子とともに、
人気を二分、戦後は女優として活躍した葦原邦子関連系図や、
宝塚歌劇団現役最年長で、名誉理事を務める春日野八千代などがいた。


そして、昭和11年に24歳で結婚。
終戦前から、阿寒湖畔に移り住み、夫と共に、
約5000ヘクタールの山林の原始美を守り、阿寒の観光振興に尽くした。
現在の阿寒湖畔に残る自然美は、この時の保護によるところが大きい。

昭和32年、夫が亡くなり、前田一歩園を継ぎ、3代目園主となった。
(一歩園とは、前田正名が全国に開いた事業地のことで、その一つが阿寒湖畔)

4300ha、湯元7本を持ち雄大な大自然をバックにした観光の発展や、
環境整備にも努め、阿寒湖畔の恩人、“阿寒の母”と慕われた。


まさに、岳父・前田正名の志を受け継ぎ、それを実践したということであろう。

(参照:「前田一歩園財団 阿寒」)


※前田男爵家は、大正11年に前田正名の長男・正一が継ぐも、同年死去。
その後、三男・三介の長男・雄吾が若年で継ぐも早世。
昭和13年に、三介が継いだが、翌年死去となり、
女子による家督相続のため、爵位の栄典を喪失した。


そらのる

●前田正名家系図
大久保利通
大久保利通
参議、内務卿/維新の三傑
関連本:大久保利通
石原近義 中警視/妻は大久保利世四女・ミネ(大久保利通の妹)
前田善安 薩摩藩士、漢方医
前田献吉 1835~1894/駒場農学校長、貴族院議員/前田正名の兄/
長男・前田青莎は国際信託会長・岩越鉄道社長/
明治3年アメリカ留学、同年以降、春日艦乗組、海軍軍医寮兼内務省の各出仕、
海軍医務局長、朝鮮総領事兼判事、駒場農学校長、
東京農林学校長(東大農学部の前身)、元老院議官等となる他、
悪性伝染病予防規則取調委員、釜山浦郵便局事務総括等となる。
前田正名
前田正名
1850~1921/農政家、農商務次官、貴族院議員(勅選)/男爵/
慶応元年長崎に留学、八木称平に師事。
明治2年から8年間フランスに留学し、のちのパリ万博では事務次官及び総領事を務める。
10年内務省御用掛、12年大蔵省御用掛、14年農商務・大蔵大書記官となり、
17年農商務省で「興業意見」(30巻)編纂に取り組む。
また、大久保利通の命を受けワイン造りに取り組み、
兵庫県稲美町に欧州産ブドウの栽培と醸造を目的とした播州葡萄園を設立。
18年にいったん官を辞して各地の農園事業の振興に尽力。
その後、21年山梨県知事、東京農村学校長、23年農商務次官を歴任。
同年、元老院議官、同年~30年、37年~大正10年勅選貴族院議員を務める。
この間、明治25年以降は各地を巡歴し“布衣の農相”と評された。
30年代は農村調査計画である“町村是”普及に努めた。
大正10年死去。死後、男爵を授けられた。
編著に英和辞典「薩摩辞書」がある。
関連本:前田正名
前田正名」祖田修/著
前田正一 正名長男/男爵
前田正次(しょうじ) 1887~1957/前田一歩園2代園主/正名二男
前田光子
前田光子
1912~1983/自然保護運動家、前田一歩園3代園主、前田一歩園財団初代理事長、
元タカラジェンヌ/旧姓・安原、タカラヅカ芸名・文屋秀子/
栃木県鬼怒川(塩谷郡藤原町)に生まれる。
昭和2年宝塚音楽歌劇学校に入学。タカラジェンヌとして活躍後、7年に退団。
11年、前田一歩園初代園主・前田正名の二男前田正次と結婚。
夫とともに阿寒湖畔約5000ヘクタールの山林の原始美を守りながら、
阿寒の観光振興に尽くした。
32年夫没後、前田一歩園3代園主となる。
美しい自然を開発の手から守るためには同園の財団化が必要であると考え、
58年4月1日、財団法人前田一歩園を設立、理事長となった。
「阿寒の母」と言われ、阿寒町名誉町民となる。
56年環境庁から自然保護功労者として表彰され、朝日新聞森林文化賞特別賞受賞。
71歳で死没。
復元の森―前田一歩園の姿と歩み」石井寛/編
前田三介 正名三男/男爵
妻はいとこにあたる華子[イチの妹貞子(ていこ)の次女]/
三介死後、女子が家督相続したため、爵位の栄典喪失。
前田雄吾 三介長男、早世/男爵
前田三郎 財団法人 前田一歩園財団理事長
本田幸介 1864~1930/農学博士、九州帝国大学教授、帝室林野局長官/
薩摩藩士・野村盛秀の二男に生まれる。
明治19年、駒場農学校を卒業し、農商務省に出仕。
22年東京農林学校教授、23年帝国大学農科大学助教授となり、
25年文部省派遣の留学生として農学研究のためドイツに3年間留学して帰国後、
29年教授となり畜産学の講座を担当。
欧州、特にイタリア・ドイツの畜産学体系の導入で知られる。
のち九州帝国大学初代農学部長、帝室林野局長官を務めた。
著書に「特用作物」などがある。
●関連人物
高橋新吉
高橋新吉
1843~1918/日本勧業銀行総裁、九州鉄道社長/男爵/
薩摩藩士の家に生まれる。
長崎に遊学して英学者・何礼之の塾に学び、洋行費と学費を得るために、
前田献吉・正名兄弟と共に、英和辞書編纂に着手した。
慶応2年の江戸開成所版「英和対訳袖珍辞書」を底本とし、フルベッキの援助を得て、
明治元年戊辰戦争前後に脱稿、2年「和訳英辞林」として上海の米国長老派教会美華書院の印刷で
初版を発行、6年東京版を刊行した。
この間3年米国に留学。4年帰国し、大蔵省租税寮に出仕、以後大蔵権少書記官、長崎税関長、
長崎県権大書記官など財政の局に当り、20年九州鉄道創立と共に社長、31年日本勧業銀行総裁に就任。
また、30年より貴族院勅選議員、大正7年男爵となった。
(肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク:コトバンク/amazon[名前で検索])





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内容は基本的に書籍、新聞・雑誌等の文献、ネット上の新聞社・出版社、人物に関する公式サイト等、TV番組なども、参考に描いております。また、家系図に登場される方からの情報の場合もあります。

人物解説リンクは正式・正統な人物事典であるコトバンクにリンクを貼っています。



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