前回・
第23回は、満州に嫁いだ嵯峨侯爵家出身の
愛新覚羅浩を描きました。
今回は、一気にその流れで、“もう一人の流転の王妃”、すなわち、
“朝鮮王朝最後の皇太子妃”、
李方子(まさこ)をまとめたく思いました。
梨本宮家出身の
李方子妃(
家系図)。
しかし、その前に、梨本宮家・・・、と言われても、
大方の現代人が、ナシモトと聞いて、思い浮かべるのは、
時たま、TV等で見かけるあの芸能レポーターの方・・・(漢字は梨元)。
また他にも、昭和天皇皇后・香淳皇后の実家といえば、
久邇宮家であり、
戦後、最初の首相は「宮様総理」
東久邇宮稔彦(なるひこ)王、
TVドラマ「流転の王妃・最後の皇弟」で登場したのは、
竹田宮家などなど。
それら宮家の名前を聞いても、現代では、なかなかピンとこないのが、実情かもしれません。
一度、簡単に、昭和22年まで存在した宮家、及びその系譜をまとめておこうと思います。
終戦当時、「万世一系」天皇家の血脈リレー予備軍としての宮家は、十四宮家が存在した。
そのうち、昭和天皇の弟宮である
秩父・高松・三笠の
三直宮(じきみや)家を除いた
十一宮家が昭和22年10月、臣籍降下(皇籍離脱)した。すなわち、“平民”になった。
その十一宮家とは、
伏見宮・梨本宮・山階宮・久邇宮・北白川宮・閑院宮・
東伏見宮・賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮家。
そして、これら宮家、すべての元になっているのが、
四親王家の中で、一番歴史のある
伏見宮家。
その系譜は、南北朝時代まで遡る。
伏見宮家は、北朝3代・
崇光(すこう)天皇の第1皇子・
栄仁(よしひと)親王を祖とする宮家。
(創立室町時代)
天皇家の血統リレーの予備軍として創立され、以後、代々の当主が、
天皇の養子か猶子つまり名義上の子として、親王宣下を受けてきた世襲親王家。
その後、
桂宮家(桃山時代)、
有栖川宮家(江戸時代初期)、
閑院宮家(江戸時代中期)が
創立され、
伏見宮家と合わせて
四親王家と呼ばれた。
実際、これら親王家の中から、皇位を継承した例としては、
伏見宮家第3代貞成(さだふさ)親王の王子・彦仁(ひこひと)王が
後花園天皇(102代)となり、
有栖川宮家第2代良仁(ながひと)親王自身が、
後西天皇(111代)に、
閑院宮家第2代典仁(すけひと)親王の王子・兼仁(ともひと)王が
光格天皇(119代)になった例がある。
以下は、歴代天皇と
四親王家の関連系図です。
伏見宮家は第4代貞常親王の流れほぼそのままで、明治を迎えた。
明治維新までは、この
四親王家だけが、血統予備軍を担い、
天皇家に親王が何人生まれても、宮家は新設されなかった。
天皇の子でも皇位継承者以外は出家し、仁和寺、輪王寺、智恩院など、
門跡(もんぜき)寺院の僧侶になった。
四親王家や五摂家などの公家も同じで、継嗣以外は出家した。
女子は、門跡尼寺に入る以外に、嫁に行く道があった。
親王家や五摂家などの娘は、閨閥の連鎖・円環の中だけでなく、
外の徳川将軍家や有力大名に入輿する事が多かった。
公家側は経済的な支援を期待し、武家側は京の雅さ(文化)や位階を求めて引き合った。
特に徳川将軍家は正室は京から迎えることを原則としていた。
そして、
維新により、この門跡制度は廃止されるに至り、
既に僧籍に入っていた者が、続々と還俗して宮家が新設された。
もし、維新がなければ、これらの親王たちは、そのまま門跡寺の僧侶として、
一生を終えていたはずであったが、徳川幕府が倒れ王政復古とともに、運命は大きく変化した。
閑院宮家第6代を継いだのは、伏見宮邦家親王の第16男子・載仁(ことひと)親王であり、
四親王家のうち、
桂宮家、
有栖川宮家は継嗣がなく、断絶した。
また、
伏見宮家から独立して、明治以降、新設された宮家のうち、
小松宮家、華頂宮家は、同様に断絶した。
戦後、
皇籍離脱した十一宮家とは、
四親王家から、
伏見宮家、
閑院宮家、
伏見宮家から派生した、
梨本宮家、
山階宮家、
久邇宮家、
北白川宮家、
東伏見宮家、
賀陽宮家、
朝香宮家、
東久邇宮家、
竹田宮家。
すべては、伏見宮家の流れであった。