天皇家の三人目のお子さま・長女である
サーヤこと
紀宮清子(のりのみやさやこ)さま(35歳)の
婚約内定発表が12月18日、正式に行われます。
[※高松宮妃喜久子さま(
第18回・
第22回参照)18日未明ご逝去により延期/12月30日正式発表]
お相手は次兄・
秋篠宮殿下の学習院初等科時代からのご学友、
黒田慶樹さん。
三井銀行(現・三井住友銀行)を経て1997年4月より東京都庁勤務の39歳。
クルマ好きで愛車はロータス、年代もののカメラを趣味とされている方。
ところで、黒田家と聞くと、どうしても筑前福岡の大名家、黒田侯爵家の流れかと、
まずは思ってしまうのですが、そうではないようで、
また、第2代総理・黒田清隆の伯爵家でもなく、
全部で8家ある旧華族の黒田家とは、どうも関係がない模様・・・。
しかし、旧華族とのつながりがあり、父方の伯母が
税所(さいしょ)子爵家に嫁ぎ、
父方の伯父の妻が
秋月子爵家の出身といいます。
(福岡分家の筑前秋月・黒田子爵家は秋月家と、つながりがあるのですが・・)
そして、その伯父に関して、
日本経団連会長の奥田碩
トヨタ自動車会長が、
「トヨタ自販の常務だったので、よく知っている。」とのコメント。
一体、黒田家とは?
そして、黒田さんとは何者なのか?
簡単な横のつながりの系図を描いておきます。
“祖父が上海の「棉花紳士」だった「黒田家の家柄」”
と載った週刊新潮11月25日号、
最近出た文藝春秋2005年1月号、そして、満州人名辞典から
黒田家の歴史をまとめてみると、
祖父・
黒田慶太郎氏(明治15年生)は戦前の上海の巨大紡績会社
上海紡織の会長を務めた人物。
そのまた父(黒田さんの曽祖父)の名は吉三郎と言い、大阪府堺市出身!
慶太郎氏は一橋大学の前身である東京高商を明治37年(1904年)に卒業後、
三井物産に入社、
三井財閥家の人間とともに渡英しロンドン支店勤務となり、イギリスに約9年滞在。
そして帰国後、三井物産が明治時代に買収し、中国で最も古い日系の同社に入り、
支配人取締役代表を経て会長に就任、長く最高幹部を務めた。
当時、紡績業は日本を代表する産業で、上海紡織はシャンボウと呼ばれ、
紡績会社として上海で1、2を争う大企業。
慶太郎氏は代表取締役会長の他、上海商工会議所議員を務め、
戦前の上海に暮らす日本人社会の有力者の一人だった。
やせ型のおしゃれでダンディ、アメリカ式ではなく、
イギリス式のスーツを着こなすジェントルマンであったといいます。
また、奥様(チカ子・明治28年生・柳河高女卒)も品の良い方であり、その父の名は、多賀武次郎。
多分、小樽商業会議所(現・小樽商工会議所)の書記長を務めた人物。
現在で言えば事務局長に近い立場で、当時「小樽港修築意見書」を著した方ではないでしょうか。
黒田慶太郎夫妻には二男四女(満州人名辞典による/文藝春秋では二男六女)があり、
長女は税所家に嫁ぎ、
長男・黒田慶一郎氏は、昭和18年立教大学経済学部を卒業、
トヨタ自動車工業勤務を経て昭和25年トヨタ自動車販売に転じ、
昭和44年取締役、50年常務、そして、日本ケミカル工業会長となった。
次男・黒田慶次郎氏が慶樹さんの父親にあたり、
初等科から学習院に学び政経学部を卒業後、
トヨタ自動車勤務。
東京・神田の呉服問屋の一人娘・壽美子さんとの間に二児をもうけるが
1986年、長男・慶樹さんが大学三年の時、56歳で亡くなった。
温厚で柔和な紳士だったといいます。
こう見てくると、黒田慶樹さん自身の流れの中には、旧華族関係者はやはり、いないのか・・。
しかし、親戚筋には旧華族・皇族につながる人がいて、まさに準華族とも呼べる存在。
また、学習院で共に学んだ秋篠宮さまと、非常に親しい関係で、
この事が、今回のご婚約の決め手になったとも、言われています。
つまり、旧華族とは関係はないが、
黒田慶樹さんに関して、確実に言える事は
“独身貴族”であった、という事ではないでしょうか。
間違いない!!
■
三井物産、
東洋棉花(現・トーメン)
三井物産の発展史は、明治時代における外国貿易の発展と表裏一体の関係にあった。
中国との綿花取引の歴史は古く、三井物産が明治10年(1877年)、
最初の海外支店として設置した上海支店以来であった。
紡績業の発展に伴い、綿花の輸入は増加の一途をたどり、
綿花は三井物産の取り扱い商品中で最も重要な商品となった。
そこで、明治27年(1894年)
「三井物産棉花部」を発足させた。
これが、大正9年(1920年)4月、分離・独立し東洋棉花株式会社が創立されるに至った。
■
上海紡織
前身は、三井物産が明治35年(1902年)、中国人経営の興泰紗廠を買収して、
上海紡績有限公司の名で香港政庁に登録したものであったが、
三井家が半数の株式を所有し、三井物産上海支店が総代理店となり、一切を管理していた。
1916年、イギリス法の改正により英法人の会社に改組され、さらに1919年、
社長及び総代理人ともに英人である事が必要となったため、
1920年7月、イギリス法人を解消し、その債権債務を継承した上で、
日本の法律による「上海紡織株式会社」として、改めて設立登記した。
東洋棉花創立時の三井本社との約束により、1922年4月
上海紡織は東洋棉花の傘下に入った。
この時点では、必ずしも順調な業績ではなかった。
しかし、大正13年(1924年)、權野健三が会長に就任し、技術者の増強とともに、原料綿花の厳選や、
製品販売を中国全土に拡大するなど独自の営業努力により、次第に業績を伸ばしていった。
その後、戸川濱男会長が昭和8年(1933年)に就任し、上海羊毛工場、青島工場などを新設、
終戦時まで順調に発展、中国紡績業の向上と隆盛に貢献した。
(以上、「翔け世界に トーメン70年のあゆみ」より参照・抜粋/
黒田慶太郎氏の名前はここには、登場しませんが、会長就任は、戸川会長のあとなのでしょうか?)
上海紡織は莫大な資産と設備を持ち、在華日本人紡績の有力企業であり、
東洋棉花にとっても最大の在外資産であったが、
太平洋戦争終結とともにすべて接収された。
黒田一家も日本へ引き揚げ、
慶太郎氏は知人に
「上海では、何十足も靴があったのに、今はこれだけだよ」と
古びた靴を見せながら、語ったこともあったといいます。
今回登場したキーワードには、
三井財閥、三井物産、東洋棉花(トーメン)、上海、紡績、トヨタ
などなど、がありますが、これらからある系図が連想されます。
黒田家がこの系図に関連があるかどうかはわかりませんが、
日本のトップ企業の産業史とも重なってくるこの人脈に
関連があったのは、間違いのないところでしょう。
そして、実際に現在、企業は、そういう方向に動いている。
そういう意味で黒田慶樹さんは、黒田家の歴史も重なり、まさに時代の流れの中、
登場してきた旬な人物と、私は勝手に考えています。
おおげさか・・・