
| 追記 ■2014年6/5、1977年以来在位37年、大谷光真門主が退任。 6/6、大谷光淳新門が、「西本願寺」第25代門主に就任。 |
| ●西本願寺大谷家系図 | |
| 大谷光尊(こうそん) |
1850~1903/浄土真宗本願寺派第21世宗主/法名・明如(みょうにょ)/ 20世宗主光沢(広如)の五男/ 四男三女の父[母は三女・義子のみ正妻・枝子(しげこ/心光院)、他は側室・お富士の方(円明院)]/ 明治4年父・光沢の死により宗主を継承、明治5年島地黙雷・赤松連城らを海外に派遣、 彼らの補佐により、明治初年の政府の宗教政策に重要な位置を占めた。 明治政府の教部省の大教正となり、神仏合同大教院に出仕したが、 神道優先の大教院から真宗の四派で共に分離、教団の宗制・教育制度の近代化をはかり、 財政改革を行い、刑務所教誨・軍隊布教に当たるなど、 本願寺教団の近代的発展の基礎を築いた。 |
| 大谷光瑞(こうずい) |
1876~1948/浄土真宗本願寺派本願寺第22世宗主/法名・鏡如/ 21世宗主光尊の長男/妻・籌子(かずこ)貞明皇后の姉(九條道孝三女) 父・光尊の死により明治36年宗主を継承。 中国・インドの仏蹟を歩き、欧州に遊学するなど中央アジアでの探検活動が知られる。 神戸六甲山中腹の別邸に住み、教団の近代化すすめたが、 3回にわたる西域探検隊をはじめとする教団事業の出費のため多くの負債をつくり 大正3年、西本願寺疑獄事件を契機に退任。 引退後は、講演や中国・南洋・トルコなどで農園を経営し、海外で生活をおくる。 第二次大戦期には、近衛・小磯両内閣の参議・顧問を務めた。 「大谷光瑞の生涯 |
| 大谷光明(こうみょう) |
1885~1961/浄土真宗本願寺派管長事務代理、アマゴルファー/法名・浄如/ 光尊三男、妻は貞明皇后の妹(九條道孝七女)、長男光照が23世宗主を継ぐ/ 明治40年欧米に遊学、語学とゴルフを身につける。 大正3年、新門だった大谷光明も兄光瑞と責任をともにして、門主就任を辞退。 大正14年、再び欧米を回り社会事業を視察。帰国後、真宗保摂会会長、 浄土真宗本願寺派審判院長、日本教学研究所長を歴任。 明治39~42年と昭和14~16年本願寺派管長事務代理を務めた。 一方、大正3年東京ゴルフクラブ会員となり、日本ゴルフ協会を創立、ルールブックの翻訳や トーナメントの競技委員長などを務めた。「ゴルフ列伝日本の百年 大谷光明」 |
| 九条武子 |
1887~1928/大正期の歌人、慈善事業家、西本願寺仏教婦人会会長、東京真宗夫人会会長/ 大谷光尊次女/ 明治42年、男爵九条良致とと結婚。翌年夫とともに渡欧するが単身帰国、 以来、10余年独居生活。幼少から歌を習い、大正5年佐佐木信綱に師事し、「心の花」に参加。 憂愁の情や孤閨哀感を歌い、名家の女流歌人として世間の関心を集める。 歌集「金鈴」「薫染」「白孔雀」、歌文集「無憂華」、戯曲「洛北の秋」 ■関連系図 「九条武子―その生涯とあしあと 「九条武子―北の無憂華 |
| 九条良致(よしむね) | 横浜正金銀行員/九条道孝五男、明治41年分家して男爵 |
| 大谷光照(こうしょう) |
1911~2002/浄土真宗本願寺派第23世宗主/法名・勝如/ 「『法縁』抄―勝如上人の九十年 |
| 大谷嬉子(よしこ) | 第23世宗主裏方、浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟総裁/徳大寺実厚長女/ |
| 徳大寺実厚 | 侍従、掌典長、平安神宮宮司/公爵 |
| 大谷光真(こうしん) | 浄土真宗本願寺派第24世宗主(門主)、全日本仏教会会長、全国教誨師連盟総裁/ 法名・即如/1945年生/ 1974年結婚。1977年4月、第24代門主に就任。 2014年6月5日、門主を退任。 著書に「願いに応える人生 (以上、本願寺出版社)などがある。 「世のなか安穏なれ―現代社会と仏教 「朝には紅顔ありて |
| 大谷範子 | 第24世宗主裏方、浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟総裁/ 旧姓・田中/大谷光真の妻。光淳の母/ 聖心女子大卒業後、上智大大学院に進み、臨床心理学を専攻。修士課程修了。 |
| 大谷光淳(こうじゅん) | 浄土真宗本願寺派第25世宗主(門主)/法名・専如/1977年生/ 1992年8月、得度し新門となる。2006年3月、龍谷大大学院学友で、 宮崎県都農町の信楽寺(しんぎょうじ)僧侶・古川流豆美と結婚。 08年4月、本願寺築地別院(現・築地本願寺)副住職に就任。 仏前結婚式を推進、首都圏伝道に注力。 2014年6月6日、第25代門主に就任。 |
| 大谷流豆美(るずみ) | 第25世宗主裏方/旧姓・古川/大谷光淳の妻/ 相愛大学で英米文学を学んだ後、龍谷大大学院で真宗学を専攻。文学研究科修士課程修了。 |
| ●関連人物 | |
| 大洲鉄然 (おおずてつねん) |
1834~1902/浄土真宗本願寺派僧侶/周防国生れ/ 慶応2(1866)年の第二次長州戦争では護国団を組織して参戦。 明治維新後、本山改革を唱えて宗教行政の改編を行い、 島地黙雷の政教分離運動を支援し、真宗の大教院分離運動に参加。 その後要職を歴任。 |
| 島地黙雷 (しまじもくらい) |
1838~1911/浄土真宗本願寺派僧侶/周防佐波郡和田村専照寺/ 養家を出奔して肥後・安芸両国で学び、帰藩後は大洲鉄然らの 宗風改革運動に加わる。 慶応2(1866)年大洲鉄然と共に改正局という学校を萩に開いて 防長の真宗僧徒の子弟を教育した。 明治初期に上洛し、宗門改革に参加。廃仏毀釈に抵抗し、 寺院寮や教部省の開設運動に奔走。 明治5年本山の西本願寺から海外の宗教事情を視察するため、欧州に派遣される。 在欧中から、明治政府に建議書を送り「三条教則」を批判し、 政教分離と信教の自由を主張した。 さらに明治6年帰国後、神仏合同の大教院分離を建白して、大教院を崩壊に導くなど、 政府の国民教化政策を瓦解させ、廃仏毀釈の打撃で、 神道に従属させられていた仏教の新生のために努力した。その功績は宗門を超えて、 仏教の救世主、近代宗教論の確立者として高く評価されている。 その後も仏教の発展に力を注ぎ、各地への布教活動に邁進、 西本願寺の執行をつとめる一方、明治21年女子文芸学舎(千代田女学園)をおこし、 その他社会改善に志して、日本赤十字の創立に参与するなど、 広い領域にわたって仏教界のために尽くした。 |
| 赤松連城 (れんじょう) |
1841~1919/浄土真宗本願寺派僧侶/ 加賀国生れ、幼少から僧籍に入り、明治元年山口県徳山の徳応寺の養子となる/ 大洲鉄然・島地黙雷とともに本山改革を推進した。 明治5年イギリスに留学。帰国後、宗門の教育改革を進め、 教部省管轄下の大教院での真宗分離運動にも尽力。 宗政の中枢をになったが、大正3年本山疑獄事件に連座して辞職、自坊に退いた。 子に男子なく、長女安子に歌人与謝野鉄幹の兄照幢を婿に迎え徳応寺を継がせた。 |
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内容は基本的に書籍、新聞・雑誌等の文献、ネット上の新聞社・出版社、人物に関する公式サイト等、TV番組なども、参考に描いております。また、家系図に登場される方からの情報の場合もあります。 人物解説リンクは正式・正統な人物事典であるコトバンクにリンクを貼っています。 |
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