■東大卒芸能人・高田万由子の系譜
もう、ずいぶん前の話になり、記憶も若干、不鮮明な部分もあるが、
あるテレビ番組で、芸能人の自宅を訪問するという番組がありました。
その訪問される側の一人が、東大卒女優・タレント、高田(たかた)万由子でした。
当時、高田万由子は、大正時代に建てられた古い大きな“舘”に住んでいた。
[その舘は、「
T邸の怪(け)
」という篠山紀信の写真集で見ることができる。
今はもうないが、東京・港区のほぼ中心・虎ノ門に建ち、築八十年。
数百坪の敷地には、うっそうと木々が繁り、総床面積二百有余坪の広大な和洋折衷の舘]
その邸の高田万由子の部屋を訪問すると、
さすが! ベッドに寝転ぶと、天井には、暗記用の歴史年号の貼り紙が。
そして、ナレーションは、こう言った。
「高田万由子は、高田財閥の末裔・・・・」
エッ、何!? 高田財閥・・・??
そんな財閥、聞いたことない、歴史の教科書でも習わなかった!!
しかし、落ち着いて、記憶の糸をたぐりよせてみると、
以前に、ある本で、「
高田商会」という名を目にしていた事を思い出した。
その本、「
日本の産業化と財閥」という薄い本には、
「金剛(巡洋戦艦)のビッカース社への発注にさいし、同社代理店三井物産が、
アームストロング社代理店高田商会との対抗上、海軍高官に贈賄した事件が、
シーメンス事件(1914年)に関連して発覚し、
三井物産重役 岩原謙三・山本条太郎らが有罪となり退社した。」
とあった。
すなわち、天下の大商社・三井物産を挫折させる要因となった強敵が、
武器・機械商社の
高田商会(創業者・
高田慎蔵)であった。
また、「
明治富豪史」横山源之助/著[底本・1910(明治43)年刊]には、こういった記述がある。
(一部略して抜粋)
「今度の戦争(日露戦争)で儲けたのは、
日本一の持丸長者といわれている岩崎一家(三菱)や、
三井一家、藤田伝三郎など、別看板として、
陸軍省の御用を受けた大倉喜八郎と、
海軍省の御用を受けた高田慎蔵は、東西の両大関じゃろう。」
すなわち、高田財閥は、横綱である三菱・三井などの財閥に次ぐ、大関と評された大企業であった。
(ちなみに、岩崎家、三井家、藤田家、大倉家は男爵を授かった。高田家に爵位はないが、
「
平成新修旧華族家系大成
」では、ある男爵家の系図に高田慎蔵の名前が登場する。詳細は下記で。)
人事興信録(
大正7年) 「高田商会」広告
しかし、明治・大正の世に栄華を誇った高田商会であったが、
次代を継いだ婿養子
高田釜吉の代になり、大正10年高田慎蔵病没、12年関東大震災、
そして、大正14年高田商会は、破綻するに至るのである。
■創業者・高田慎蔵
高田慎蔵は、三井物産創業者・益田孝と同様、佐渡の出身であった。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、
明治3年、19歳で上京し、外国人商会に勤めた。
以後10年間で貿易実務に習熟し、大きな働きぶりで、蓄えも増やしていった。
いづれ独立を考えていた矢先の明治13年、外国人の商売が厳しく制限され、
政府は諸官庁に対して、外国商から物品を直接購入する事を禁止した。
そのため、勤めていた
ベア商会は行き詰まり、
明治の初めより来日して貿易商を営んでいたドイツ人、ミカエル・ベアは、撤退・帰国した。
高田慎蔵は、その資産を継承し、ヨーロッパの大手メーカー数社の輸入代理店として動き出した。
当初は、先発の三井物産や大倉組との売込み競争が激しく、
一時、大きな損害をこうむったが、持ち前の忍耐力で難関を切り開いて行き、
明治の三大貿易商の一つとまで言われる高田商会に発展させていった。
高田商会は、機械・船舶の輸入に実力を発揮し、
当時、機械輸入高では、日本の商社中、最大といわれた。
※なお、ベア商会のミカエル・ベアは、日本女性・荒井ろくとの間に生まれた幼い照子を
帰国前に、高田慎蔵の養女として入籍させた。
そのハーフである照子と、東京帝大地質学教授・原田豊吉が結婚し、生まれた子供が、
「系図でみる近現代
第13回」で描いた西園寺公望の秘書・
原田熊雄男爵であり、
有島生馬夫人となる妹・
信子であった。
(なお、ベアは帰国後、フランス女性と結婚してフランスに帰化、1904年に死亡した。)
また、余談であるが、陸軍中将や満鉄総裁を務めた男爵・
中村雄次郎は、
原田熊雄の祖父・原田一道(いちどう)の部下だった時、一道の養女・小糸くにと結婚した。
■「天下の糸平」と二代目・婿養子高田釜吉
「天下の糸平」と称された
田中平八は、一般的に“相場師”として知られるが、
実のところ、明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった。
明治39年、高田慎蔵の二女・雪子に、
その田中平八の三男、田中釜吉を婿養子に向かえ、
高田釜吉とした。
高田釜吉(明治9年生)は、明治25年、
ドイツに留学し、
ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。
さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、
技師として売り出し中であった。
慎蔵は釜吉に一目惚れして、この男こそ高田商会を任すに足る人物と見抜き、
娘婿にするとともに、明治42年、副社長に就任させた。
そして、大正元年には、采配を譲り、56歳で慎蔵自らは、顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
大正人名辞典によれば、
釜吉の趣味は
狩猟であり、一人娘・愛子は、
仏英和高等女学校を卒業したとある。
■高田万由子の系譜を検証
最近、出版された「
親子論。
」は、35組の親子が登場、
親と子が対談形式で語り合うという本であるが、
そのうちの1組が、
高田智子・
万由子の母娘である。
本・雑誌、企業広告等で、この母娘を目にする事も多いが、
高田万由子には、何冊かの
著書・関連本があり、また、
母・高田智子(さとこ)にも、「
大人のための2週間からのプチ留学」などの著作がある。
それら著書・関連本から、直接的に、高田商会と高田万由子の関連を結びつける記述はない。
しかし、ヒントらしきものは、いくつか見出すことができる。
結論から言うと、
高田万由子の父方が、高田慎蔵に繋がる。
つまり、
高田慎蔵は、高田万由子の高祖父にあたり、
高田釜吉は、曽祖父である。
まずは、
高田万由子の父、すなわち高田智子の夫・
高田祐一を検証すると、
質問:
「お父さんは貿易関係のお仕事をなさっていて、
都心の一等地に500坪もある土地にお住まいだとか。」
万由子:
「ええ、自動車を扱っています。
ずっと貿易はやってたんですけれども、自動車になったのは父の代からです。
自宅は私のひいお祖父さん(曽祖父)からの家なので、父がどうこうというわけではないです。」
父・高田祐一は、高級外車の輸入販売を中心とした「UNION・高田商会」を経営した。
しかし、
2004年に、68歳で亡くなった。
現在も会社が、稼動しているのかどうかわからないが、
HPは残っている。(
会社概要)
次に祖父母及び、曽祖父に関してであるが、
祖父は東大医学部卒で、医学の道に身を捧げた医者であった。
しかし、高田万由子が幼少の頃、亡くなった。
そのため、父の実家で、祖母一人が住む虎ノ門の邸宅に、小学校低学年の時、移り住んだ。
祖母は、白百合の卒業生であり、高田万由子も小学校より、白百合学園に通った。
なお、
白百合学園の旧校名は、「
仏英和高等女学校」と言った。
その祖母、及び曽祖父に関しては、
智子:
「義母は海外生活の経験こそないものの、ドイツで青春時代を送った父親の影響で、
受験生にドイツ語を教えるくらいの語学力があり、英会話も日常会話くらいならOKという、
語学や勉強には理解のある人でした。」
また、
智子:
「ちょっとめずらしい趣味ですが、私たちはみんな猟銃の免許を持っているのです。
これは夫の祖父の代からの伝統で、夫は五歳ぐらいのときから、
おじいさまに連れられて狩猟に出かけていたのです。
私も結婚して何年かしたときに『とにかく免許だけは取ってほしい』と言われて、
なかば強制的に免許を取らされました。(中略)
万由子も規定の年齢に達したときに、父親がさっさと手続きをすませ、
『これはわが家の義務だから取りなさい』という感じで免許を取らされました。」
以上の記述等から、判断して、曽祖父は、高田釜吉であり、
その一人娘だった愛子が、祖母、
すなわち、その夫で医者だった祖父は、釜吉同様に婿養子だったと思われる。
が・・・・、しかし、それは違った。婿養子ではなかった。
祖父の名は
北岡正見。医学博士で、国立予防衛生研究所副所長を務めた人物。
つまり、高田釜吉の一人娘・愛子(人事興信録では安慰子)は、北岡家に嫁いだ。
そして、その間に生まれた長男で、北岡姓であった祐一(釜吉の外孫・万由子の父)が、
後に、高田家の養子に入り、高田祐一となった。
だから、系図の基本構造は、どちらであれ、同じである。
上記の検証及び、人事興信録を参考に、簡単な系図を描くとこうなる。
■高田商会と高田慎蔵
高田商会と高田慎蔵に関してのみ、書かれた本というのは、皆無と思われる。
しかし、「
経営者の精神史 近代日本を築いた破天荒な実業家たち
」や、
「
賭けた儲けた生きた―紅花大尽からアラビア太郎まで
」の一つの章として、その記述がある。
それらを参考にすると、
高田商会は、明治20年代には、きわめて洗練された商社へと成長を遂げて行った。
東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。
高田商会は、大学卒の技術者を多数雇い入れ、ロンドン、ニューヨーク、上海などにも支店を置き、
海運・土木建築・不動産取引・鉱山業・機械製造などにも事業を拡大した。
日清・日露両戦役では、武器・爆薬・機械の調達で巨利を博し、
貿易商としての地位を磐石のものとした。
明治41(1908)年に、合資会社に改組した他、傘下の事業を
高田鉱業などの株式会社にして、
小規模な財閥を形成するまでになった。
第一次大戦が始まる(1914年)頃、日本で電気事業が発展したが、
高田慎蔵がウェスティングハウスの日本総代理権をもっていたところから、
高田商会の利益はほとんど独占的となり、機械の値上がりによる利益は莫大なものとなった。
政財界の大物との交遊も広がり、同郷の益田孝(三井財閥大番頭)がつくった、
美術品を鑑賞しながら茶をたしなむ大師会の重要メンバーとしても重きをなした。
益田の三井が、鉄・食糧など基幹産業に集中していたのに対し、
高田商会は精密機械、電気の絶縁材料などに集中し、東京の都市電化へ貢献した。
特に建築に力を注ぎ、高田商会本店(麹町)、自邸(本郷湯島)、別邸(赤坂表町)は、
鹿鳴館を設計したコンドルの設計であった。
また別に、「
追跡 一枚の幕末写真」という本がある。
そこに登場する人物の一人が、のちに勤めたのが、高田商会であった。
その本では、
高田慎蔵の孫に当たり、戦後、フランスに渡り、カメラマンののち、
ピエール・カルダンの店に入り、専務(当時)を務めた女性、
高田美(よし/2009年没)へのインタビューが、掲載されている。
「本郷の高田の蔵、といっても今は誰も知らないんですが、
私が子供の頃は、湯島一帯全部が高田の家だったんです。
どうしてあんな大きな家が一夜にしてつぶれたのか、私にもわかりません。
でも、祖父は慎蔵といって、当時の最先端技術の会社をやっていたのです。
余り話のスケールが大きいので、かえっていまの人には信じられないらしいんです。」
また、日露戦争に関して、
「くわしいことは知りませんが、高田商会はヨーロッパで武器を買いつけ、
日本に送ると同時に、ロシアの革命軍の方にも武器を密売していたらしいんです。
つまり、日露戦争の後方撹乱ですね。
当時のことは最高の国家機密でしょうから、
どんな記録に出てくるか想像もつきませんが、(中略)
いまの天皇様(昭和天皇)が皇太子の頃にヨーロッパに来られたときは、
高田商会パリ支店がご案内した、というような話もきいたことがあります。」
まさに、政治的にも、経済的にも、非常に大きな存在であったという事であろう。
■囲碁と慎蔵夫人・たみ子(民子)
高田慎蔵の妻・高田民子は、東京本所の雑穀商の娘であった。
民子は負けん気が強く、豪放磊落で気前が良かった。
その民子は、囲碁の
本因坊秀栄を支援した。
「
明治の碁―本因坊秀栄の生涯
」より、高田民子の名が登場する部分を
抜粋、一部略・加筆して羅列する。
秀栄は、その窮乏を見かねた善意の知人から、何度かパトロンを紹介されたことがあったが、
芸人扱いされる事を嫌い、三菱の岩崎久弥に紹介されようとしたのも断っていた。
だが、民子夫人に会った時、その庇護を受ける事に決めた。
彼女の態度に、カネの威光をかさに着ようとする姿勢が見られなかったのと、
それと表裏する純粋な囲碁への愛好心が感じられたためであった。
格別な取り決めもなく、秀栄と民子夫人の協力関係は始まった。
明治27年2月、第19回の囲碁奨励会は初めて、本郷湯島の高田邸で催された。
そのために民子夫人は、上質の碁盤を十数面準備した。
また、秀栄は月に6日、彼女に個人教授する事によって四十円を得る事になった。
他にも、中川亀三郎、安井算英、石井千治、田村保寿が、彼女の個人指導に当たった。
民子夫人は、その娘とともに、毎日二番ずつ碁の勉強に励んだ。
圧倒的な勝利に終わった日清戦争で、
貿易商社高田商会主・高田慎蔵は、巨万の富を得、
本郷区湯島三組町の高台に広壮な邸宅を新築した。
それと同時に、夫人民子の棋士への肩入れも一段と深くなり、
民子は秀栄と中川亀三郎に、それぞれ一戸をあがなって与えた。
秀栄は3年にわたって維持してきた囲碁奨励会を解散し、
民子夫人の援助を得て、新たに囲碁研究機関・四象会を設立した。
秀栄は高田邸で民子夫人の主宰になる、安井算英との十番碁を争った。
などの記述がある。
■「釜大尽」高田釜吉と高田商会の破綻
一技師であった高田釜吉は、いきなり、副社長、
そして、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充を図る一方で、花柳界に出撃する回数も増え、
その豪遊ぶりから、花柳界では、「釜大尽」と称された。
また、社員たちが、取引先を接待するという名目で料亭に繰り込む風潮が広がり、
驕りの気風が高田商会を蝕み始めていた。
欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが、
大正10年12月、慎蔵が69歳で病没、この辺りから、高田商会の雲行きが怪しくなっていく。
大正12年4月、基幹鉱山であった高田鉱業深田銅山の工場が全焼する事故が起き、
そして、9月の関東大震災で、屋台骨が大きく揺らぐ。
輸入品在庫は焼失し、欧米から思惑輸入した各種物資がその後の円相場急騰によって暴落。
加えて、帝都復興には、膨大な木材が必要になると睨んで、秩父の山林を買い占めたが、
アメリカ等から、大量の安い材木が日本に流入、大赤字となった。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会の経営危機がささやかれるようになり、
そして、大正14(1925)年2月21日、高田商会は破綻・休業するに至るのである。
当時の模様を、同年に高田商会の筆頭重役・
石川慎一の次女・直子を
妻にもらった、のちの三井銀行社長・会長、
佐藤喜一郎は、「
私の履歴書」で、
「関東大震災が、日本経済に与えた打撃は非常なものだった。
第一次大戦の蓄積は大部分ははき出された。
これに大戦中の好況の反動もあって、私が帰国したころから
日本経済はおかしくなってきていた。
外国課にはいってしばらくすると、高田商会が破産した。
高田商会は海軍に物資を調達する会社で有名な老舗だった。
破産の直接の原因は内閣が更迭したため、
海軍が出すはずだった金を出さなくなったことにあったが、
この高田商会とは池田成彬さん(三井銀行筆頭常務)が懇意だった関係で、
三井銀行はかなりの融資をしていた。
そして当時の金で約四百万円というコゲつきを生じたのである。
けれども三井銀行は決算でこれを一度に償却した。それはりっぱなものだが、
われわれのボーナスまで半減されたのには、さすがに驚いた。(後略)」
と記している。
現在では、
高田商会という大商社があったこと自体、知る人は少ないであろう。
高田万由子は、教科書を徹底的に学習する事で、東大に合格したという。
昭和2年に破綻した「
鈴木商店」は、教科書に載っていた記憶がある。
「
高田商会」は、日本の近代史上、教科書に載せてしかるべき企業では、なかろうか。
(敬称略)