
| ■加島屋久右衛門家(加久)歴代当主 (参照:大同生命の源流―加島屋と広岡浅子、ほか) | ||
| 初代 | 広岡久右衛門正教(まさのり) | 1603~1680年 |
| 2代 | 広岡久右衛門正保(まさやす) | 1649~1703年 |
| 3代 | 広岡久右衛門正道(まさみち) | 1687~1720年 |
| 4代 | 広岡久右衛門正喜(まさのぶ) | 1689~1765年 |
| 5代 | 広岡久右衛門正房(まさふさ) | 1742~1783年 |
| 6代 | 広岡久右衛門正誠(まさよし) | 1774~1833年 |
| 7代 | 広岡久右衛門正慎(まさちか) | 1791~1840年 |
| 8代 | 広岡久右衛門正饒(まさあつ) | 1806~1869年 |
| 9代 | 広岡久右衛門正秋(まさあき) | 1844~1909年 |
| 10代 | 広岡久右衛門正直 | 1890~1978年 |
| ■加島屋のビジネス |
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| 掛屋(かけや)・蔵元(くらもと) | 幕府・諸藩の公金出納取扱い。蔵屋敷の管理。 |
| 入替両替(いれかえりょうがえ) | 米や砂糖などの商品やその預り証を担保とした商人への融資 |
| 大名貸し | 諸藩への融資。 全国の約三分の一に相当する百以上もの藩に及んでいた。諸藩のメインバンクのような位置づけ。 |
| ■加島屋と鴻池の純資産比較 [天明2(1782)年] (純資産=総資産-負債) ※当時の銀相場から1貫を83万円として計算 |
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| 加島屋 | 2万2818貫 (189億4千万円) |
| 鴻池 | 1万9312貫 (160億3千万円) |
| 加島屋が鴻池を純資産で上回っていた。ただし、加島屋の記録は天明2年分しか確認できず、同年以外の順位は不明という。 (以上、上記「産経新聞」より) |
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| 鴻池と同様に、貸付はほぼ自己資金で、収入の多くが貸付利子の収入であった。純資産でも利子収入でも鴻池を上回る商いを行っていた。 (特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」より) |
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| ■明治初期に倒産した大阪の富商 (「なぜ三井だけが生き残ったのか 「半世物語」広瀬宰平、「日本会社企業発生史の研究」菅野和太郎 より) |
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| 加島屋作兵衛、平野屋五兵衛、炭屋安兵衛、島屋市兵衛、升屋平右衛門、天王寺屋五兵衛(※大眉家/広岡浅子の異母姉・春の嫁ぎ先)、茨木屋平右衛門、加島屋作五郎、加島屋作次郎、塩屋猪三郎、雑喉屋三郎兵衛、和泉屋六郎右衛門、山家屋権兵衛、油屋彦三郎、鉄屋庄右衛門、綛屋善太郎、近江屋休兵衛、日野屋茂兵衛、助松屋忠兵衛、天王寺屋忠次郎、銭屋六兵衛、具足屋七左衛門、近江屋権兵衛、蒲島屋治郎吉 | |
| ※大阪では、鴻池、加島屋(加久) 以外のほとんどが、維新の転換期に消滅した。 | |


| ●広岡浅子家系図 | |
| 広岡久右衛門(正饒[まさあつ]/8代目) |
1806~1869/両替商(屋号・加島屋)/加島屋久右衛門家(加久)第8代当主/明治2年、63歳で死去/ 7代加久・正慎(まさちか)の娘・とらの婿養子。加島屋治郎三郎家(「四軒町」)より養子入り/ 明治元年、長州藩の財政再建に、最大の債権者として、他の債権者との交渉役を担い、利子など負担軽減に協力。その労に対して、藩主・毛利敬親より黄金茶碗が贈られた。 |
| 広岡久右衛門(正秋/9代目) |
1844~1909/加島屋久右衛門家第9代当主、加島銀行初代頭取、大同生命保険初代社長/ 本名・正秋、幼名・文之助、別名・加島屋久右衛門/ 妻・なつは大阪府平民・加島屋作兵衛(加作/長田作兵衛)三女/ 三井・鴻池と並ぶ大坂の両替商兼米問屋、8代目加島屋久右衛門の三男に生まれるが、長兄・喜三郎(正影)が1865年、25歳で早世したため、総本家を継いで9代目久右衛門を襲名。 18歳の時、大坂東役所で会計見習を務め、明治天皇東幸の際には御用掛、また長州藩毛利敬親に召出されて朝廷の出納役なども務めた。 明治元年、由利公正発行の金札(太政官札)の流布に鴻池と共に尽力し、2年民部省より大坂為替会社惣頭取を命ぜられ、また大阪通商会社惣頭取となる。 21年、一族の出資で加島銀行を設立、頭取に就任。22年大阪市議。32年朝日生命重役を兼ね、35年護国生命、北海生命を合併して大同生命保険株式会社とし、初代社長となった。 この間、32年堂島米穀取引所理事となり、36年理事長。 |
| 広岡久右衛門(正直/10代目) | 1890~1978/大同生命第3代社長、能勢電鉄会長、日本伸銅取締役、大阪庶民信用組合理事/ 鳥取藩士・三沢立身六男。旧名・案山子(かかし)。兄に三沢糾/ 妻・イク(郁子/幾子/日本女子大卒)。広岡家に婿養子入り/ 長女・允子(のぶこ/大正5年生)清水谷高女出身、子爵(上野七日市藩主家)・前田利定(逓信相、農商務相)嗣子・前田利民に嫁すも離婚。 [※前田利定の実弟に、侯爵(加賀金沢藩主家)・前田利為(陸軍大将)] 長男・正荘(大正10年生)慶大法学部卒、東洋交易、京阪神急行勤務、妻・文子(大正14年生)小西新右衛門(小西酒造第12代当主)二女。聖心女学院卒 三女・千鶴子(大正11年生)日本女子大卒、夫・帝銀勤務、小池正宣(父・小池正彪三井総元方常務理事、祖父・男爵小池正直陸軍軍医総監) 四女・瑠璃子(大正12年生)日本女子大卒、夫・清光林業社長、南都銀行取締役・岡橋清左衛門(先代・岡橋清左衛門養子) 二男・正慶(昭和2年生/早世)同志社大経済学部卒、日本生命勤務、妻・八千代(昭和4年生)日本不動産社長・川崎金蔵養女、旭ヶ丘高女卒。 (※以上、経歴は当時の「人事興信録」等より抜粋、最終経歴でないものも含む)/ 大正3年、同志社大経済学部卒。三井銀行に入り、6年ハーバード大に学び、のちボストンナショナルバンク、紐育メトロポリタン生命等にて実地研究ののち、欧州各国を視察。9年4月帰朝と共に大同生命取締役となり副社長を経て昭和17年8月社長に進み23年相談役に就任。この間阪急、大阪海上火災各取締役、能勢電鉄会長、広岡合名各代表を兼ねる。/ 『関西の文化・社交面でも活躍。同志社大学ラグビー部初代キャプテンを務めるほどのスポーツマン。また、ゴルフにも堪能。「茨木カンツリー倶楽部」の開設や「宝塚倶楽部」(現・宝塚ゴルフ倶楽部)のコース設計に尽力するなど、日本ゴルフ界に大きく貢献した。「日本ゴルフ100年顕彰」の一人。(大同生命「広岡浅子・加島屋」展より)』 ■広岡久右衛門 日本ゴルフ100年顕彰 |
| 広岡浅子 |
1849(嘉永2)~1919(大正8)/大同生命保険創業者、加島銀行創業者、日本女子大学創立発起人/ 京都油小路出水(あぶらのこうじでみず)の三井家・三井高益の四女(高益50歳の時の子)/幼名・「照」または「浅」/ 三井高益の「別腹」で嘉永4年、2歳の時、高益の養子・三井高喜のもとに「義妹」として「入家」し、三井家の人間となった。同様に高益の「別腹」で2歳年上の姉・春は高喜の養女として「入家」。母親が誰なのかは二人とも記されていない。/ 1866年、17歳の時、幼少からの許嫁、大阪の豪商加島屋の分家・広岡信五郎と結婚。 維新動乱に際し、家運が傾きかけたが、夫は趣味に没頭、浅子は広岡商店の経営の任にあたり、男勝りと言われながら加島屋の家運挽回を図り、単身上京して諸侯御用金の整理に成功したのをはじめ、店務を総轄、実業界に入る。 鉱山、銀行の経営にあたり、1888年、本家加島屋と共に加島銀行を設立、のち1902年大同生命設立の立役者ともなり、大阪実業界の女傑として知られた。1896年成瀬仁蔵と知り合い、成瀬の著作「女子教育」に感銘、1901年設立の日本女子大学校に物心両面で援助した。04年夫没後、娘婿の広岡恵三に家督及び事業を譲り、もっぱら女子教育に情熱を傾け、「婦女新聞」にも度々寄稿した。 1911年洗礼を受け、晩年は宗教活動に従事、1905年日本キリスト教女子青年会(YWCA)創立中央委員、1918年大阪YWCA創立準備委員長をつとめた。各地に赴き伝道活動を続けたが、18年病に伏し、翌年東京麻布の広岡家別邸で死去。「遺言はしない。ふだん言っていることがすべて遺言」と遺言を残さなかったという。著書に「一週一信」など。 「小説 土佐堀川 広岡浅子の生涯(文庫) 「広岡浅子徹底ガイド おてんば娘の「九転び十起き」の生涯 「婦人界三十五年」福島四郎 |
| 広岡信五郎 | 1841~1904/加島銀行2代頭取、尼崎紡績(のちのユニチカ)初代社長/ 6代広岡久右衛門の代に広岡家から分かれた別家である広岡五兵衛家(「江戸堀」、「新宅」とも)に養子入り。分家も本家に隣接して住んでいた。/ 明治9年、浅子との間に娘・亀子をもうける。明治16、17、18年、ムメ(通称・小藤/三井家から浅子にお供でやってきた5歳年下のお手伝いの女性)との間に続けて女児(ツタ、キワ、アキ)をもうけ、21年、初の男児・松三郎をもうける。 |
| 広岡恵三 | 1876~1952/大同生命第2代社長、加島銀行頭取、加島信託社長、三井物産監査役、廣岡代表、大阪電気軌道(現・近鉄)社長/ 子爵・一柳末徳二男。明治9年生。一柳家は旧・播磨小野藩藩主(大名)家/ 妻・カメ(亀子/1876~1973)は広岡信五郎・浅子の長女。広岡家に婿養子入り/ 長男・喜一(明治40年生)京大経済学部卒、蔦商事代表、大同生命取締役、妻・信江(明治40年生)、笹子謹(笠戸船渠専務)長女、オペラ歌手、日本音楽学校卒、 二女・八重子(明治36年生)聖心女学院、米国ウェスレー大学各卒、 長女・多恵子(明治35年生)夫・神田盾夫[国際基督教大教授、東大教授/男爵・神田金樹の弟。父は男爵・神田乃武(ないぶ/英語教育家、正則中学校創立者、貴族院議員)] 三女・佐恵子(明治37年生)聖心女学院卒、夫・第八軍渉外局勤務村上義温(外交官、ペルー公使) 四女・美恵子(大正2年生)米国ウェスレー大学卒、満谷家に嫁す。 養妹・ツタ(明治16年生)、夫は群馬県、松井萬緑 養妹・キワ(明治17年生) 養妹・アキ(明治18年生)、夫は医学博士、日本赤十字社大阪支部病院長兼内科医長、前田松苗(父・前田松閣) 養弟・松三郎(明治21年生) 養妹・すえ(明治13年生)、大阪府・小徳(生魚商)井上徳兵衛の母 (※以上、経歴は当時の「人事興信録」等より抜粋、最終経歴でないものも含む)/ 明治36年東京帝大法科大学政治学科卒/ 大同生命社長を明治42年~昭和17年までの33年間務めた。 ※加島銀行は、昭和2年の金融恐慌により業績が悪化、昭和4(1929)年、鴻池銀行、山口銀行、野村銀行の3行に店舗を売却し、12年加島銀行は廃業・解散。 |
| 広岡松三郎 | 大同生命第4代社長、加島信託専務、加島銀行取締役/父・広岡信五郎、母・ムメ。明治21年生/ 大正元年慶大理財科卒、5年横浜正金銀行に入り、サンフランシスコ支店勤務ののち、10年1月より6月まで欧州を視察。帰朝後、大同生命監査役に就任。昭和11年取締役に進み、常務、副社長を歴任して22年7月社長に選任され、28年相談役に就任。傍ら、27年阪急監査役に推され34年退任後、阪急不動産監査役を歴任した。 妻・貞子(明治33年生)は澤田廉三妹。 子は眞佐子(大正11年生)、 信一郎(昭和2年生)、 敏雄(昭和6年生) |
| 三井高益(たかます) | 京都の三井・出水家(のち小石川家)第6代当主/正妻との間に3人の娘と1人の息子をもうけるも、いずれも早世/ 広岡浅子は50歳の時の子で、「別腹」。浅子9歳の時、59歳で没。 出水家は三井高利(三井の元祖)の六男・高好(若くして没)の養子となった高利の十男・高春がたてたもの。 明治維新後、東京の小石川に住まいを移したことから小石川家ともいわれる。 |
| 三井高喜(たかよし) |
1823~1894/三井・小石川(出水)家第7代当主、三井銀行総長/三井三郎助/ 三井高英八男。三井・南(みなみ)家から養子に入り、高益48歳の時、家督を継ぐ/ 広岡浅子の26歳年上。長男・弁蔵、養女・春/ 幕末・維新期に三井総領家・北(きた)家の三井高福(たかよし)・高朗(たかあき)父子とともにリーダーとなって活躍。几帳面で厳正な性格。若い頃から筆まめで、自筆日記は40冊を超える。 |
| 三井高英 |
三井・南家5代当主/ 三井高喜の父 |
| 三井高景(たかかげ) |
1850~1912/三井・小石川(出水)家第8代当主、三井鉱山社長、日本女子大学監事・評議員/ 三井高喜長男。幼名・弁蔵。別名・三井三郎助/ 広岡浅子の1歳年下。浅子の社会活動の熱心な支援者/ 明治5年、3年間のアメリカ留学を終えて帰国し、合名会社を組織するとともに、鉱山部部長として鉱山事業発展のために尽力。 成瀬仁蔵の援助要請に対し、他の三井家に諮るとともに、自ら所有地である目白台の5400坪を日本女子大学校用地として提供。それ以後、発起人、創立委員、監事、評議員として多大の援助をなし、軽井沢に日本女子大学校の夏期寮「三泉寮」を建築寄付するなど、大きく貢献した。 |
| 三井寿天子(すてこ) | 三井高景夫人・ステ/大阪平民・高木五兵衛長女/ 広岡信五郎と浅子の養女(「広岡浅子を理解するための10人(家族編)」より)/ 日本女子大学桜楓会補助団員として活躍し、桜楓会館を寄贈した。 |
| 三井高修(たかなが) |
1892(明治25)~1962(昭和37)/三井・小石川(出水)家第9代当主、三井化学工業会長、日本女子大学理事・評議員/三井高景三男/ 妻・広子は男爵・島津長丸の娘。長男・三井高進は第10代当主。 |
| 天王寺屋五兵衛 | 両替商(明治維新の混乱・変革で没落)/大眉家。屋号・天王寺屋/大眉五兵衛(9代目)/ 妻・春は広岡浅子の異母姉(明治5年、25歳で没)/ 『両替屋の起源は、大坂の商人、天王寺屋五兵衛が金銭の売買を始め、預金の受け入れと手形の取扱いに手を広げて基礎が築かれたとされる。北浜の界隈は、この天王寺屋五兵衛の向かいに、もうひとつの大坂本両替の旧家である平野屋五兵衛が店を構え、五兵衛と五兵衛なので、世の人は今橋通りと交差する八百屋町筋を「天五に平五、十兵衛横町」と呼んできた。十人両替の二大豪商とされたのがこの天王寺屋と平野屋だったが、四代目・鴻池善右衛門の姉妹・益を天王寺屋五兵衛が娶って、ここに、老舗両替屋の世界に新しい力が注ぎ込まれた。 ※「十人両替」とは、大坂では大手両替の仲間うちから、行司役によって業績すぐれた十人が選ばれ、これが十人両替と称して、巷で「信用度筆頭」に位する両替商と格付けされた。(以上、「持丸長者[幕末・維新篇]―日本を動かした怪物たち |
| 一柳末徳 | 参照:「系図でみる近現代 第46回」 |
| 一柳満喜子 | |
| ウィリアム・メレル・ヴォーリズ | |
| 澤田廉三 | 参照:「系図でみる近現代 第16回」 |
| 澤田美喜 | |
| 岩崎弥太郎 | |
| 岩崎久弥 | |
| 澤田信吾 | |
| 松井萬緑 | 加島銀行常務、大同生命取締役、第一銀行広島支店長/松井貫一長男/ 東京帝大法科大学卒/ 甥(妹の長男)に澄田智。 |
| 澄田智 |
第25代日本銀行総裁、大蔵官僚(事務次官)/父・澄田らい四郎(「らい」は「貝」偏に「來」)は陸軍中将、母・静枝は松井萬緑の妹/ 母は地主の家の8人きょうだいの末娘に生まれ、陸軍軍人の父と見合い結婚。母方の曽祖父は群馬の名産である生糸や絹の商いで財をなした。その息子である祖父・松井貫一は明治期に、群馬の片田舎にキリスト教の教会を開いたほどの開明的な人物であった。 |
| 笹子謹(ひとし) | 笠戸船渠専務、社長(「水平線はまねく」より)、大阪鉄工所(のち日立造船)因島工場長、造船技師/千葉県の教育者、漢学者の家に生まれる。妻・愛子。四男四女をもうける。敬虔なクリスチャン一家であった。1968年死去/ 兵庫県御影町に住み、家の向かいは岩井商店・岩井家の豪邸であった。 『笹子の家のサロンの客人のひとりに、当時、帝国酸素営業部長の鈴木崧(たかし)がいた。鈴木の妻鞠子の兄加藤英倫の、成城学園・京大をつうじての友人が、光の姉・信江の夫広岡喜一で、鈴木は、その縁で笹子の家に出入りし、当時神戸で評判の混血美人鞠子は、画塾の生徒となった。なお広岡は、御影のちかく岡本にすむ、大同生命保険会社の御曹司で、祖母は三井家の出という、阪神間でも指折りの名家であった。(「水平線はまねく」解説より抜粋)』 『若い夫婦(※八島太郎と光)にサンフランシスコからニューヨークまでの汽車賃がないことを知った謹はさっそく別の便をみつけてくる。ふたりは光の姉・信江の婚家先の親類にあたる外務次官・沢田廉三にたのみこんでパスポートを手に入れる。廉三は、「エリザベス・サンダース・ホーム」の創設で知られる美喜の夫であった。(「さよなら日本」より抜粋)』 |
| 八島光(ミツ) | 1908~1988/画家/旧筆名・新井光(光子)/本名・岩松(旧姓・笹子)智江/笹子謹二女/ 実家はクリスチャン。神戸女学院から文化学院油絵科に進み、プロレタリア美術運動に入る。農村託児所での児童画運動などで活動。戦後は、米国で日系人の権利獲得運動に尽力。 |
| 八島太郎 |
1908~1994/絵本作家、プロレタリア画家/タロー・ヤシマ/本名・岩松惇(あつし)、ペンネーム・岩松淳(じゅん)/ 父・岩松親愛(ちかよし)は医師/ 1908年鹿児島に生まれる。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学。軍事教練を拒否して退学。日本プロレタリア美術家同盟に参加。プロレタリア漫画の実作と理論活動。39年渡米。43年「あたらしい太陽」を出版、また日本兵向けのビラ作成に携わる。戦後もアメリカにとどまり、著名な絵本作家として活動を続けた。 |
| マコ岩松(マコ・イワマツ) |
1933~2006/アメリカの日系俳優/本名・岩松信(まこと)/1933年日本に生まれ、15歳の時に渡米。 ハリウッド及びニューヨーク演劇界で活躍する東洋人俳優として著名。ロスアンゼルスで東西劇団を創立(7人の設立メンバーの一人)。以後、二十数年間に渡りアーティスティック・ディレクター(芸術監督)として劇団を率いた、アジア系演劇のパイオニア。/ 妻は芸名(旧姓)・星静子、父・韓国人、母・日本人。愛称・スージー、女優兼舞踏振付家で、演出も手掛ける。/ ロバート・ワイズ監督「砲艦サンパブロ」(1966年/主役スティーヴ・マックイーン)に出演、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。1976年ブロードウェイミュージカル「太平洋序曲」に主演、トニー賞主演男優賞にノミネートされる。「コナン」(シュワルツェネッガー主演)の準主役の魔法使いアキロ、「タッカー」(コッポラ監督)、「パシフィック・ハイツ」(シュレジンジャー監督)、「ライジング・サン」、「セブンイヤーズ・イン・チベット」に出演。日本では遠藤周作原作・篠田正浩監督の映画「沈黙」、テレビドラマ『泣いてたまるか』(渥美清主演)で、「先生ニッポンへかえる」の回(1967年)のアメリカ帰りの英語教師役、山田洋次原作・脚本「祖国 THE HOMELAND」などに出演した。 |
| モモ・ヤシマ | アメリカの日系女優/本名・岩松桃子/1948年生。マコ岩松の妹/夫は白人と日本人のハーフ、メキシコ系アメリカ人/ |
| 伊佐千尋 | 作家/養父・伊佐善雄(沖縄出身の病理学専門の医師。沖縄戦に従軍し、戦死)。/実父は八島太郎。八島光と結婚以前に交流していた女性・仁科正子との間に生まれた八島太郎の長男。マコ岩松の異母兄/ 1978年「逆転」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。 |
| ●関連人物 | |
| 五代友厚 |
1836~1885/実業家、大阪商工会議所初代会頭/幼名・才助/ 『薩摩藩士。1854年、藩の郡方書役となり、長崎の海軍伝習所に留学し、航海・砲術・測量などを学ぶ。 薩英戦争では、寺島宗則とイギリスの捕虜となるが、のち英国留学生派遣の上申書を提出し、1865年留学生を率いて英国へ渡った。 帰国後は官庁を経て、実業界へ身を投じ、主として大阪商工業の発展に貢献した。 墓は大阪市天王寺阿倍野墓地。(「幕末維新人名事典 ■五代友厚(初代会頭について) |
| 成瀬仁蔵 |
1858~1919/日本女子大学創立者、教育家/ 小学校長などを務めた後、明治10年キリスト教に入信、大阪で洗礼を受ける。 11年大阪梅花女学校教師となるが、15年辞職。 牧師として布教活動に従事し、その間、22年新潟女学校、北越学館を設立。 23年アメリカに留学し、女子教育を研究、27年帰国して梅花女学校(現・梅花女子大学)校長に就任、雑誌「女子教育」を創刊するなど女子教育に尽力した。 34年日本女子大学を創設し、長く同学長を務めた。 人格教育を重視した生涯学習を提唱した。 大正元年再び欧米に渡航、帰国後、2年、教育調査委員会委員、6年、臨時教育会議委員として女子教育の発展に尽くした。 「成瀬仁蔵著作集」(全3巻)がある。 「いまを生きる 成瀬仁蔵―女子教育のパイオニア |
| 井上秀 |
広岡浅子の娘・亀子と京都府高等女学校時代に寮の同室。 広岡浅子の薫陶を受けて成長し、日本女子大学校に入学。 後年、日本女子大学学長として日本の女子教育に貢献した。 |
| (肩書き・役職の「元・前」は基本的に省略|人物解説リンク: |
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| その時々の話題の人物、あるいは、旧華族・皇族や、近現代に活躍した人物を、家系図やリンク等を交えてエピソード、系譜・閨閥などを書き留めていくページです。
内容は基本的に書籍、新聞・雑誌等の文献、ネット上の新聞社・出版社、人物に関する公式サイト等、TV番組なども、参考に描いております。また、家系図に登場される方からの情報の場合もあります。 人物解説リンクは正式・正統な人物事典であるコトバンクにリンクを貼っています。 |
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